コロナの状況もだいぶ落ち着いてまいりまして、このまま終息することを願っているのですが。私、大丈夫だと見極めがついたらしたいなあと思っていることがございます。
内幸町にイエローバンブーというベトナム料理店があるのですが、とある理由から、ここで食事会をしてみたいなあと思っておりましたが、コロナ禍が始まったことで人を誘うことに躊躇いを感じる状況が続いていたので、のびのびになっているのですね。
とある理由というのは、この店の店長さんが自分達を助けてくれた沖縄水産高校の実習船の船長さんと再会したという記事を見たからです。
ベトナム戦争が終わった後、敗軍の大佐だった父は母とともに収容所に連行された。祖父母と暮らす「大佐の息子」には、どこに行くのも公安の許可が必要。
「ここにいては駄目だ。新しいところで人生を切り拓きなさい」
祖父母は孫息子の将来を考え、密航業者に話をつける。木造船には、生きる為に故国を捨てる人々が赤子を含めて105人集まっていた。川を下る船は検問所からの銃弾を受けたが運良く誰にも当たらなかった。
船が海に出て三日目。食糧も尽きた。水も尽きた。雨水を飲んで凌ぎ、「もう死ぬしかないのか」と覚悟をし始めた時、遠くに船が見えた。沖縄水産高校の実習船「翔南丸」
当直の士長から
「夜明け前、遠くに灯りが見えた」
と報告を受けた船長は報告があった方向に船を進める。何度も行き過ぎる船に気づいてもらえなかった木造船の中の人々は、今度こそ気づいてもらえるよう松明の火を振って助けを求める。
実習船の中の人々と船長の判断が海の藻屑となる筈の人々の命を救った。
「余計なことをした」と実習船の船長は、当時の日本政府関係者から嫌味を言われたが、それは陸の掟。陸の判断。海に生きるものは従うべき海の掟がある。漂流した船の中から助けを求める声があがれば、その声に応えない船乗りなどいない。
とはいえ搭載人数を大幅に超過したまま航海は続けられない。翔南丸は日本政府の指示のもと針路をフィリピンのマニラに変え、木造船から救いあげた人々をフィリピン政府に引き渡した。
フィリピンで難民収容所に収容された人々のうち、何人かは日本に渡り、その中の一人は日本に帰化した。難民救済に尽力した日本人の支援で大学を卒業し、就職し
「日本のベトナム料理屋でベトナムらしくない料理が出てきた。ベトナムの料理を、日本人が美味しいと思うベトナムの料理を出したい」
そう思い、研究し、飲食店のアルバイトで経営のノウハウを学んだ後、ビジネス街で店を開いた。その店に偶然沖縄から出張でやってきた教師が立ち寄る。
「沖縄から来た」
そう教師が話した時、店長の表情が変わった。
「じつは沖縄にいる命の恩人を探している」
教師は出張から戻った後、県内の新聞社に協力を求め木造船の中の人々を救った船が沖縄水産高校の実習船であること。その当時の船長が誰だったのかを突きとめた。
実習船の中の人々も自分達の出会った木造船の中の人々がその後、どうなったのかを気にしていた。36年ぶりの再会。万に一つのチャンスを信じて故国を後にした人々は善意の人達に出会うという運を掴み、その運を生かした少年は異郷の地で祖父母の願いのまま新しい人生を切り開いた。
コロナ禍は、各地のお祭りにも影響を及ぼしまして。ご神事は行うけれど御神輿は中止という話も各地から流れてまいります。葵祭の行列も3年連続で中止になったそうですが、ご神事の方はちゃんと行われたそうで。5月の講座の前に宗匠がその時のことを話してくださいました。
葵祭の正式名称が「賀茂祭」であることも知らなかった東国人からすると、宗匠や参列された方から伺うお話だけでも優美な京のお祭りだなあという気がします。
それにしても今年の大河の主人公、同郷人としては「よくまあ京や朝廷相手にあんな恐ろしいことをしたなあ。よく頑張ったよ」と思いますし、蛭ヶ小島に流された源頼朝が自分を担ぐ東国武士団を内心バカにしていたことも。そのことを見透かした伊東祐親に
「血筋の良さを鼻にかけ、罪人の身で我ら関東武士を下に見る。あんな男にどうして愛娘をくれてやることができようか」
と、言われてしまうのも無理はない気がするのです。(殿上人だった少年が、宮中どころか京から追放されて鄙暮らしでは、そりゃあ、都落ち感が抜けないでしょう。鄙の住人からすれば、「韮山は気候温暖、風光明媚な良いところだ」と一言言いたくなるでしょうけどね)
その鄙の住人の集団が1000年以上前からあんな優美な祭りをしているところ相手に戦ったのですよ。そりゃあ、大博打ですわ。
葵祭があの装束とあの儀式を1000年以上続けてきたかと思いますと、「都、恐るべし」と思いますし、「美は力。文化は力」ということを都人は、よく知り尽くしているのだなと思います。
千年以上続く祭りというだけであれば、実は世界では珍しいことではありません。世界を歩けば今でも行われている千年続く祭りというのはいくらでもある。
けれど、それらの祭りを日本の祭りは決定的に違うことがある。かつて古事記を元にした物語を英訳した翻訳家は言った。
「『祭り』を『Festival』と祭り特有の特別な感じ、心浮きたつ感じが出ない」
「祭り」は「祀り」日本の祭りは神をもてなす為にある。
「Festivalの語源はラテン語で「楽しい」「陽気な」を意味する「Festivus」
Festus、Festa、Festival、ラテン語から別れ、それぞれの国の言葉に変化していっても元々の意味は残る。饗宴、祝祭、人々の集まり。海の外の祭りは人が楽しむ為にある。
始まりの目的が違えば、祭りの様式が変わる。日本では、どんな激しい喧嘩祭りでも神事に関わる部分は別。神に関わる祭りごとは、清潔、清楚、雅でなければいけない。
この清潔、清楚というのは日本の祀りごとの特徴。同じように歳を重ねた古家でも日々清められ丁寧に磨き上げられた場所には神が棲み、手入れなく見捨てられた場所には妖が棲む。古道具でさえも打ち捨てられれば付喪神となる。
幕末期や明治期に日本を訪れた外国人の中には、寺社を訪れた体験を「異教の神を祀る場所ではあるが、きれいに清められていて心地よい」と記しているものが多々ありますね。
その清められた場所が華やぎを増す時がある。日本の祭りは美しい。葵祭を見るがいい。清潔、清楚な場だからこそ、より映えるその色彩美。清冽な美しさ。
化学染料のない時代に、草木染であれだけの色を出し、単衣を重ねることによって自然とどう同化するかという色の合わせ方を知っていた。
匂いとも重ねとも言われる装束の合わせ方が始まっていたのは千百年前以上前。どの色とどの色をあわせるか重ねの数だけで千種類が考案されたのは千年前。
白砂の上を歩むにはどの色合わせが映えるのか?千年前の人々は、既にそれを考えて装束を選んだ。
神事に立ち会うことは許されない庶民でも、祭列を彩る人々の華やかさに歓声をあげた。
祭りがFestivalに近くなり、祭りの形骸化や、神事や祭りを虚礼だと蔑む言葉を見ることも珍しくはないけれど、葵祭はまだ有効。
葵祭はだけではない。地震でも、疫病でも、常とは形は違えども続けることを諦めなかった各地の祭りはまだ有効。
何故、日本という国で、日本の神々とその神を仰ぐ人々が祭りというハレの日を必要としたのかを、祭りを続けようとする人々には分かっている。祭りをすることでいったい何が変わるのか。
葵祭は鴨川が反乱しないようにと願って始められた祭りではあるけれど、どんなに切なる願いをかけても災害や天災は起こる。どれほど神に祈っても災害や天災は止められない。
けれど祭りをすることで私達の心が変わる。人の心持ちが領域転回する。祭りに参加する人が葵や桂をかざす。葵は薬草として海を渡ってきた花。
薬効のある植物をかざし、消毒となるものを常に身体につける。祭りの為に神社に詣でる。境内に入る前には手を洗い、口を漱ぐ。
コロナが始まってから、日本で忌み事とされてきた迷信に理があることに気づいた人がいる。これは感染症というものがあることを知らない時代に経験知で防疫の為に戒められていたことではないのかと。
祭りの為に人が集う。集った人々は、祭りに挑む為にいつもよりより一層身を清める。
葵祭を寿ぐ為に天皇家から遣わされた勅使が祭りの前に到着し、下賀茂神社の楼門の前に用意された勅使とその御付だけの為の幄舎で禊を行う。
お宮参り、結婚式、神社でお祓いを受けた経験を受けた人は多い。だがじつが大麻で祓ってもらうのは簡易版。そもそもお祓いは神職の役割ではなかった。
明治になり国が近代国家を形成する為に政府主導で神社改革を行ったことで各地の祭祀もおおいに変わらざるを得なかった。
元々は、お祭りは神職。お祓いは陰陽師。司る役割ごとに分担が分かれていた。神職は神祇官、陰陽師は陰陽寮。その役割ごとに所属する官庁が違っていた。
葵祭は、神祇官が司ってきた形で祓いを行う。勅使は、神域に入る為に必要な所作で身を清める。一つ一つ丁寧に、所作をきっちり決めていき、時間をかけて禊を行うことで身が清まっていく。祭りの準備が整っていく。
それは勅使を迎える側も同じ。まずは参列者が誰になるのか。参加者を募るところから祭りが始まる。
葵祭りに参列するとなれば正装。まずそこでハードルが高い。どんな衣装を選べばいいのか?着物なら薄物の紋付。今は夏物の着物というだけでハードルが高い人がいる。
更に葵祭には透けもの、透けて見えるような薄い着物に紋付。家紋付の着物と聞いて更に悩む。この着物は透けものになるのか?着物は、これで良し。なら帯は?草履は?
葵祭に相応しい夏の装いか?そうやって悩みながら準備することで夏の準備が出来上がる。祭りだけでない、夏全般に向けての準備が出来上がる。
そうやって祭りに向けて、どんどんどんどん気持ちが高まってゆく。日常の不安も怯えも祭りの準備に追いやられ、祭りのことだけに頭の中が満たされてゆく。
そして祭り当日、清らかな場で、清冽な美しさを満たす要因の一つとして己もその場に立ち会う。
ああ、自分はこの恰好で正解だった。あれだけの準備をしたかいがあった。そう思うことで清まっていく。
そうやって祭りの日の為に用意してきた装いで、幄舎で勅使が禊を行う姿を見ながら待つ。
勅使が清まる為の禊には様々な所作がある。普通ならしてはいけないとされることでも禊の為なら行われることがある。
たとえば鎌倉宮の厄割石。盃に息を吹きかけ、厄が移ったとされる盃を思いきり厄割石に投げつける。盃が見事に壊れるとその壊れた音でスッキリする。
葵祭りの中にも同様の所作がある。割きぬのといって、一つの紙を八回切る。一つ破っては重ね、一つ破っては重ねて、八回切る。八回、紙が割ける音を聞く。
こうやって紙を割き、破れる音を聞くことで荒ぶる気持ちが静まっていく。荒ぶる気持ちが軽減されてゆく。
こうゆう所作が勅使の禊の中に入っている。禊の儀として行われる。迎える側も訪れる側も祭りの準備を行うことで身を清める。
だんだんとお祭りに向けて、気が高まっていく。今でも生きている祭りは、祭り本来の役割が有効に生きている。形骸化せずに息づいている。
夏の豪雨が引き起こした洪水を止めることは出来ない。けれど溢れた水の残したものが疫神を招いたとしても、祭りに向けてどんどんどんどん気が高まった身体はそんなものには負けはしない。
祭りに向けて気が高まり、アドレナリンが上がっていった身体は疫病を招く菌にも抵抗を示す。元気が病を寄せつけない。
流行り病を抑える為の智慧としての祭り。葵祭はざっと考えても形を変えず千三百年続いている。
千三百年形を変えないで続けるほどの有効な儀式事。お祭りの所作一つ一つが形骸化せずに生きている。歯車のごとく、全ての所作が繋がっている。
葵祭りは渡来の祭り。奈良に都があった頃、朝廷を悩ました禍は賀茂の神を祀ったことで鎮まった。それは渡来人がもたらした知恵で禍事が解決できたということに他ならない。
奈良に都があった頃、山背国に住まうのは故国を捨てて海を渡ってきた一族。高い技術を持ってやってきた難民の集団に朝廷は山背の地を与えて保護した。渡来人達は朝廷の与えたチャンスをものとした。
葵祭の中心となる四神は、どの神も古事記に出てこない。四神の姿が描かれるのは古事記ではなく風土記。
これはすなわち、この四神が渡来人の神であったことを現わしている。葵祭の主祭神は渡来神。そして今いる日本人の大半はその渡来人達の子孫。
これは遺伝子的にも証明されている。総合研究大学院大学と東京大学は、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)のゲノム解析により、現代日本列島人は、縄文人の系統と、弥生系渡来人の系統の混血であることを支持する結果を得たと発表している。
アイヌ人から見ると琉球人が遺伝的に最も近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示されたと。
渡来人達は大陸や朝鮮半島から、生き延びる為に海を渡ってきた。王朝が替わった時、先の王朝の関係者が一族根絶やしにされるのはよくあること。
殺されたくなければ、すぐさま逃げ出さなくてはならない。特に大陸の考え方では後の禍根を割ける為に敵対するものは赤子にいたるまで根絶やしにするのが通例。
戦争が始まった時点で万が一の危険を避ける為に安全な場所へと逃げ出すもの。戦況を見極める為に逃げ出さず、しばらく故郷に留まるもの。
同じ一族でも考え方の違いによって対応が異なり、海を渡ってきた時期も変わる。時代によって逃げてきた場所も変わる。
長期間に渡り、海の彼方から逃げてくる人々を受け入れる日々が続いた。凄い技術力と最先端の考え方を持った人々が難民としてやってくる。
受け入れ側の日本人にとっては無下にするのはもったいない。むしろマレビトとして歓迎した。
とはいえ、受け入れる側の自分達よりも多い高い技術を持った難民達をバラバラに住まわせるのは困る。
そこで彼らに広い盆地と広い平野を与え、そこにまとめて住まわせた。それが京都と関東平野。
当時の都から離れた場所で暮らす彼らから、新しい技術や新しい考え方を学び、国をどんどん新しくしていった。
海の向こうの国から、渡来の人々は次々にやってくる。新しい人々が来るたびに、新しい技術と新しい知識がやって来る。元々渡来だった人達の住まう土地に、新しい渡来人達がやって来る。
新しい知識や技術の到来は、元から住まうもの達に喜ばしいものであるとばかりは限らない。それは自分達の知識が、自分達の技術が古びてしまったということを示す恐ろしいもの。
その恐ろしさに立ち向かう為に新しくやって来た渡来人というマレビト達に贈り物を渡し、技術や知識の教えを乞う。
そうして贈り物と引き換えに新しい技術や知識をわが物として取り入れる。これが禍が収まるということに他ならない。
神は人心の仮託。では葵祭の神はどんな人心の仮託なのか。葵祭の神は災害を止めたり、災害から発生する疫病を止めたりという神ではない。
むしろ災害を引き起こしている神。この災害を引き起こしている神とつきあう中で、どういう人心が動いたのか?
一国の長である天皇が自分の一族の女の子を人身御供に立てて、また自分の遣いを立てて皆をもてなす。
普通の祭りは、神の方から人の方にやって来る。天におわす神が人の住む町に降りてくる。人のもとを訪れる神をもてなすのが祭りの本質。
葵祭は違う。葵の神は出てこない。出てこない神のもとへ人が会いに行くのが葵の祭り。これが葵祭の特異性。葵祭が示す人心。
私達が会いに行く。災害や疫病、怖くて目をそむけたくなるようなものに人の方から会いに行く。災害や疫病のもとにわざわざ会いに行く。目をそむけたくなるようなものに会いに行く。
制御するわけでも、何かをお願いするわけでもない。禍や災害をもてなす為に会いに行く。禍や災害をもてなすことによって、禍や災害をわがものにするのではなく、我が隣に置くことを選ぶ。そうして多様性を認識する。
自分とは違うもの、怖いもの、まつろわぬもの、こういったものを排斥するのではなく、認識する。これが日本の人心がやってきた一番の作業。
この多様性を見るのに葵祭は面白い。外国の神を、とても威力のある強い神、私達とは違う神に会いに行き、一緒に食事をし、「貴方が災害ですね。貴方が禍ですね」と認識して帰ってくる。
多様性とは相手を理解することではない。理解するとは受け入れること。多様性とは受け入れることではなく認識すること。そういう人達がいるということを認識すること。
認識したもの達が同じテーブルにいた時に意見を言い合えることが重要。本当の多様性は同じテーブルについたもの同士が意見を言い合って
「わかった、じゃあ、棲み分けよう」
と考えるのが多様性。そういうことを日本人は何度も目指して挑戦してきた。
葵の神に会いに行く。夏の装いをして賀茂の神に会いに行く。何を夏の装いをするのか。薄ものの紋付。これが葵の神が知っている正装。
でも「自分にとっての正装は、このTシャツと短パンです。これが貴方に敬意を表す一番の正装です」そう胸を張って言えるなら、その結果起こることを引き受ける覚悟があるのなら、多様性の権化の神はその正装を受け入れる。
これが自分の正装だと、夏の装いを纏い、夏の神に会いに行く。人が自分のもとを訪れることで夏の神は、「夏が来たな。自分の出番がやって来たな」と思う。
けれど精一杯の夏の正装をして、神のもとを訪れたとしても、訪れた人に対して
「よくやって来たね」
と神が褒美をくれるわけではない。何故、神は人に褒美を与えないのか?それが今期の古事記の話となる。
コメント