【第3回】 タカムスヒ カミムスヒという神

何かを成すにあたって、大事なこととして時と縁というものがございます。他の全ての条件は揃っていたというのに、この二つに恵まれなかったが為に上手くいかないこともあれば、そのつもりはなかったのに、この時と縁に恵まれた故に、ことを起こしたものが望んでいた以上に事態が進むこともある。

世界70ヵ国以上で翻訳され、100ヵ国以上の国々で著作を出版されている北欧の人気作家リンドグレーン。ある時に、彼女のところに三人の東洋人がやってきました。

「あなたの作品をアニメ化させて欲しい」

 人気作家ほど、自分の作品の映像化には慎重です。リンドグレーンと同じく、世界的に有名な人気作家ミヒャエルエンデは、自作の「はてしない物語」が「ネバーエンディングストーリー」というタイトルで映像化された時、自分が伝えたかったテーマと180度逆の終わり方をした映画に激怒し、ラストシーンをカットすることを求めて裁判を起こしました。

 この主張は認められず、エンデは「これは、私の作品ではない」と自分の名前を映画のクレジットから外すことで妥協するしかありませんでした。

 このように、作家とくに児童文学の作家は自分の著作への愛から、自分が伝えたいテーマをきちんと描ける相手かどうかを見極めてから、映像化を許すかどうかを決めたいとう傾向が強い。

 遠い東洋の島国の、聞いたこともないアニメ会社からの映像化のオファーに、本当に自分の作品が任せられるのかと不安になっても無理はないかもしれません。

 後にスタジオジブリが欧州でもその名を知られるようになった頃、リンドグレーンの著作権継承者は、かつてアニメ化を求めてやって来た三人の東洋人が、宮崎駿、高畑勲、小田部羊一であったことを知りました。

 そこで、あらためてスタジオジブリに「長くつしたのピッピ」のアニメ化をオファーしましたが、今度はジブリ側がそれを断りました。宮崎は「26年遅かった」と呟き、高畑は「自分がやりたいと思っていないことは確か」と語り、小田部は「今、作れと言われても、あの頃のようなエネルギーを出せるとは限らないし、熱気なしに作品を作っても僕は意味がないと思うんです」と答えた。

 かつて、スウェーデンを訪れた三人ではなく、宮崎駿の息子、吾郎が「長くつしたのピッピ」ではなく「山賊の娘ローニャ」をアニメ化する。そして映像化されなかった作品は、その制作資料のみが「幻の『長くつしたのピッピ』」と書籍化された。

 父が映像化を望んだ作品を、息子が映像化したものとして、もう一作「ゲト戦記」がございます。こちらも宮崎駿が映像化を望んで、何度か原作者のル・グィンに許可を求めてきましたが、アニメといえばディズニーのイメージしかなかったル・グィンは、アニメ化に消極的でした。

しかし「ゲド戦記」の日本版翻訳者である清水真砂子と再会した時、「ジブリ作品は、私の作品の方向性と同じ」と気に入っていることを述べ「もし私の作品を映像化するとしたら、OKを出せるのはあの人だけ」

 と、口にしたことから、それを宮崎駿に伝えていいのか確認したうえで彼女は、ジブリにル・グィンの言葉を伝えました。この時の宮崎駿の反応もやはり「遅かった」

 当時、宮崎は「ハウルの動く城」を製作中。

「これが20年前なら、すぐにでも飛びついたのに……。」

 ル・グィンに映像化の許可を求めた日々は遠い過去となっておりました。

「これまでの自作品で既に『ゲド戦記』の要素を取り入れて作ってきたから、今更できない」

 宮崎は自分が監督として映像化することを断りましたが、滅多に映像化を許可しないル・グィンが自作の映像化を許した貴重な機会を無にすることは「ジブリにその人あり」として知られた名プロデューサー鈴木敏夫には出来ないことでした。

 こうして原作とは異なるジブリ版の「ゲト戦記」が生まれたのです。映画は、原作の3巻である「さいはての島へ」を独自の解釈で描いた物語ですが、「ゲト戦記」というのは、そもそもシリーズ名であり、シリーズ最初の作品である「影との戦い」の主人公、ゲトの名が冠された物語です。

 アレンではなく、ゲトの物語から語るならば、真の名を知ることで、その名の主を支配することが出来ると考えられている世界。己の傲慢さから呼び出した影に名前を知られてしまった少年は、己が支配されることを怖れて影から逃げ。

 幾度か危機を繰り返し、やがて師の助言を得て、影に追われるのではなく、影を追うことを選択する。

これは影に名前を知られてしまった少年が、自分を追う影に名前をつけるまでの物語。

名前をつける。そのことに、どんな意味があるのか?

名前をつける。その行為にどれ程の時間を必要とするのか?

名前をつける。それをたがわず行えるようになるまで、どれほどの危地をくぐり抜けなければならないのか。 

名前に支配されたもの。名前を己がものとしたもの。それぞれの姿を描き、「名前」というものが持つ力を語る物語。

8月の古事記講座は、神あがりについての問いから始まりました。人が神になる。この概念は、どこから生まれたのだろうと。

イエス・キリストは神の子とされる。すなわち人ではない。マホメットは神の預言者であり、あくまで人。人と神とは別れている。

祖霊信仰ならば、他の国にもある。彼岸を渡った人々を祀ることで、その人達が生きている者達を守ってくれるという考えは他の国にもある。

けれど特定の故人が神になる。神として祀る。これは、どこから生まれたのだろうという問いに宗匠は答えた。

「日本では『神にあがる』という考えより『仏になる』という考えの方が長かった」

 本地垂迹説、神仏習合。明治になって政策により分離されるまで、日本では神と仏は一体だった。明治天皇は崩御に際し

「一生においての心残りのことは、即位式を仏教の大元師の法によって出来なかったことである」

 という言葉を残した。歴代の天皇は仏教の守護者だった。明治天皇は祖霊達と同じ信仰を続けることが自分には許されなかったことを悲しんだ。

 神仏習合という考えが、ちゃんと日本に定着したのは鎌倉時代。それまでは仏も外国の神だった。

 古事記には、それぞれの豪族の祖となる神の名が記されている。それはすなわち、各豪族達を束ねる為には、古事記に記されている神以外の神が必要だったということ。

 国家を守護する神。人心を安定させる神。外国から来た仏という名の神。

 神は祀らなければいけない。それが自分達の一族の祖となる神。自分達を守る神であるならば。

 けれど、神を祀るだけでは不安は消えない。疫病が流行る。庶民どころか貴人さえ死ぬ。天皇ですら、疫神からは逃れられぬ。

 人には心を喰らう恐怖から身を護ってくれる存在が必要。外国から仏教が渡ってくるまで日本の神は姿をもたなかった。

「目には姿は見えぬとも、確かに神はおわします」

 日本の神は見るものではなく、「いるな」と分かるものだった。見えないけれど、神はいる。確かにここにいらっしゃる。

 けれど不安に襲われた人々にとっては見えない神だけでは足りなかった。異国から渡ってきた美しい人型。人のようでありながら、人でない美しいもの。

 これが仏だという。これが護ってくれるという。たとえ死んだとしても御仏が護ってくれるという。

 疫病が流行り、政治の中枢を担ってきた要人達が次々と倒れ、地震が起き、地方では中央に不満を持つ者達が反乱を起こした。

 その不安を鎮める為には、誰の目にも、この神がおられるから大丈夫な筈だと信じられる大きな仏が必要だった。形あるすがれるものが必要だった。

 人々の不安を鎮めるもの。故に律令制の時代、僧侶は官吏でもあり、官の許可なく僧となる私度僧は禁じられた。

 最盛期の大唐帝国に留学生として海を渡った最澄と空海という二人の天才が日本の仏教を更に進展させる。

 奈良時代、僧となることは仏教という学問に通じた高級官吏になるということでもあった。

生・病・老・死。釈迦族の王子であったシッダールタがその生涯をかけて知ろうとした四つの苦に囚われない生き方。どうしたら輪廻の輪から外れて自由になれるのか。

釈迦が残した教えを弟子達は経典として纏めたが、異国の文字で書かれた経典は、その内容の深さもあって難解であり、また仏教は本来自らが修行して輪廻の苦しみから逃れることを目指すもの。

経典を学び続ける専門家から直接教えを受け、寺を建て、僧侶を保護するという俗人でも容易く徳を積める方法で仏の加護を得られるものは限られた一握りの階層のもの達だけであり、大方の者達は恵と禍、どちらをも与える神が人に少しでも情をかけてくれることを祈り、飢えと病を怖れる無明長夜の中にいた。

その状況に飽き足らなかった最澄は「人は誰でも等しく仏になれる」と説いた法華経と出会い、その思想を更に深く学ぶ為に貪欲に知識を求めた。

当時の長安は、仏教のみならず様々な神を奉じる人々が集う国際都市だった。回教(イスラム教)、景教(キリスト教)、拝火教(ゾロアスター教)

空海は、それを見ていた。何が人を惹きつけるのか。仏の教えを伝える為にどんな手法が有効なのか。

 空海は、優れていると思ったものをどんどん仏教に取り入れた。文字が読めないものには経典など読めない。

 どんな素晴らしい教えが経典に書かれていたとしても無学のものにとっては、聞き慣れない言葉。意味の分からぬ呪文でしかない。

 けれど無学の者でも燃え盛る火の壮大さは分かる。仏様の智慧の炎で、己の中にある煩悩を焼き払う。

そんな意味など分からなくても、燃え盛る火に供物を投じて祈願する。その行動を見れば、これで仏様が自分達を守ってくれると納得する。

二人の天才は仏教に対する垣根を低くした。

仏教は論理でものを考える。今起きていることは、過去の原因の結果。原因に縁って結果が起きる。今苦しいのは、過去に何らかの原因がある。

今良いことを行えば、良い結果が返ってくる。良い因果は良い因果に繋がり、悪い因果は悪い因果に繋がる。

仏教では人は輪廻の輪の中にいる。今、自分がこんなに苦しいのは過去の因果がもたらしたもの。だから、悪い因果を断ち切って、良い因果がやって来るよう徳を積めば来世はきっと西方浄土に生まれ変わる。

平安時代という言葉とは裏腹に仏教が人々を魅了した時代は平安とは程遠い時代だった。天災は止まず、飢えは珍しいことではなく、疫病が流行り、地方では豪族達の反乱が繰り返された。

貴族の姫君でさえ、盗賊に浚われ、その躯が往来で犬の餌として晒される時代。末法思想が世に満ちるのもおかしくない。

貴人であっても、その思想からは逃れられない。いや貴人であるからこそ、末法が恐ろしかった。

仏教は輪廻を説く。今は栄華に満ちている身でも次に生まれ変わったら、どうなるのかは分からない。

高見にいる人ほど、そこから落ちることが恐ろしい。美しい宇治の平等院。来世でも極楽浄土に行けることを願って、藤原氏は自らの一族の為に地上に極楽浄土を作った。

地上に極楽浄土を再現できるような貴人や僧侶、限られた人だけが救われるという教えから異なる考えが平安末期に生まれた。

最澄が比叡山に持ち込んだ「人は誰でも等しく仏になれる」という思想を更に発展させたのは法然。

 南無阿弥陀仏。阿弥陀仏は、自分の名前を唱えたら、必ず我が名を唱えた人を救うと請願を立てて解脱した。

 だとえ相手が貴人でなくても、生きる為に奪い人を殺めた悪人でも、そのことを悔い、救いを求めて「南無阿弥陀仏」と唱えたものは必ず救うと請願を立てた。

 法然は阿弥陀の誓いを信じた。来世に繋がる徳を積む為、絢爛な寺院を建てなくても、貧しい無学なものであっても、南都仏教では救われない存在であった女性でも、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できる。阿弥陀仏によって救われると説いた。

 この考えは人々を魅了した。「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでいい。それだけで自分達も西方浄土に生まれ変わり、死後はこの苦しみから逃れられる。

 仏教が爆発的に広がった。ところが仏教は本来自らが修行して、六道輪廻から自由になることを目指すもの。御仏の力で西方浄土に渡していただいたはいいが、そこは極楽の最下層。

更になる高見を目指すには自分の力で修業しないといけない。

 最下層といえ、そこは浄土。穢土であった現世よりは苦しみのない恵まれた環境だが、より阿弥陀の側に近づくには何もしないという訳にはいかない。

 浄土で、より清らかな高みを目指して修業する死者の為に、生者は寺に詣で、経を読み、徳を積み、亡くなった身内を現世から応援する。

 とはいえ、死んだ後まで修行するのはしんどいという考えが生まれてくる。現世に生きる者達もいつまで応援すればいいんだという気持ちが生まれてくる。

 そういう気持ちが生まれた時、そう思う人が増えた時、その気持ちに応えるように、望んだ言葉を返してくれるものが現れる。

 不幸な幼少期を送った平田篤胤には、亡き身内の浄土での安寧の為に正者が徳を積むという考えは馴染めなかった。

「阿弥陀の名を唱えるなど不要。日本人なら神様になれる。良い志を持っているものは神になる」

 そう説いた。神社が死者を神とする。軍神として祀るという明治以降の在り方の種がここに生まれた。誰でも神になれると説いた。

平将門、豊臣秀吉、徳川家康。それまではこれほど力を持った方ならば、死後も神として力を振るうだろう。守り神となるだろうと思ってくれるだろう。

そう人々が望んだものが神となった。徳川家康を東照権現としたのは、大僧正天海。救いを求める人々に法然が阿弥陀仏を示したように、家康を神とすることで人々の守護者とした。

けれど、普通の人を神とする考えはなかった。それを平田篤胤は人は神になれると説いた。

そう人は神になれる。自分がそう決めたのであれば。

 自分が死後そうすると決めたのであれば、それが出来る。他の誰が納得しなくても、これが自分の信仰だと自分で決めて責任を負うのであれば許される。

現代の日本での最大の権利は、宗教の自由があること。基本的人権の中に宗教の自由がある。

 人は、何を神とするか。何を信じるか。何を信仰するのかを自分で決めることが出来る。他の誰でもない。自分だけが決められる。

 人に信じろと言われても信じたくないと思えば拒否することが出来る。残された人の宗教ではなく、自分の為の宗教であるというのが日本の考え方。

 自分が神になると決めて、死後神道式に祀ってくれと残された人々に頼むことは出来る。

自分がどういう信仰を持つのか。それを決められるのは自分だけ。

 前期までは宗匠が語られたことは、人心。人の心としての神。今期は観念としての神。神様を観念としてどう捉えるか。私達が見失いつつある神を今期は見出す術を学ぶこととなる。

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