歳の終わりに一つ、あまり面白くない話をいたしましょう。
近年遺失物係を悩ましている忘れ物に遺骨というものがございます。電車の網棚やスーパーのトイレ、そのようなところに置かれた忘れ物が、戒名札や火葬場を特定できるような包みが取り除かれていて、誰が置き去ったのか分からないようになっている骨壺だった、という話は、年々増加する傾向にあります。
つまり、悲しみのあまり放心して、うっかり忘れたのではなく、誰が忘れたのか分からないようにして故意に忘れたのだと。このような忘れ物が増える理由として、経済的困窮が挙げられるますが、理由はそればかりではなく、虐待等何らかの理由で死者に関わりを持ちたくなかった人達が、生前だけでなく死後も迷惑をかけられたくないと遺骨を置き去りにする例もあるようです。
これは近年、社会問題として認識されるようになった孤独死にも関連する話です。 LMNという社団法人がございます 。一種の家族代行業 、終活行為をサービスとして提供している団体です。
エンディングコンサルとして提供しているサービスは医療、介護、相続、お片付け、葬儀、供養、家族代行サービス料。日本は、入院するのも家を借りるのも保証人を必要とします。
保証人となってくれる身内を持たず困っている人達も多い。そのような人達は、このようなサービスを必要するだろう。代行事業を始めた時、想定していた申込者は、は身寄りがない、いわゆる高齢の「おひとり様」でした。
ところが、募集してみると高齢者本人からの申し込みは 3 割を切っている。申し込みのほとんどが介護が必要になった家族をお荷物に感じていて何とかしたいという人達でした。
そのため自ら終活を希望する当事者を想定した内容から「家族が重い」家族のサポートに向けてと、大きく舵を切りました。
依頼してくる子供は現役世代。その親は低所得よりの中間層が多いですが、経済的な理由だけが依頼する理由ではない。他人だからこそ、適度な距離を保って必要な支援が出来ることもある。
何故、他人だから出来るのか?それは社会が必要なサービスを提供する他人には、社会通念や模範的な家族像を押しつけ、その重さに耐えきれない人の悲鳴を無視するということをしないからです。
実は、日本は血縁社会ではありませんでした。遠くの身内より近くの他人。日本はいわば疑似血縁社会。地縁社会的で自分に近い親しい者を助ける。
華僑のように、本物の血縁社会は血がつながっていたら会ったことがなくても、血が繋がっているという理由でその人を助けたりする。けれど日本は血が繋がっているだけで、会ったこともない親族よりも、いつも会っているご近所の人を大切にする。
行政の制度は、血縁社会のような制度作りをしているので、そこに歪みが出る。親族の負担が大きくなるので、感覚的にそこから逃げたいと思う人達は当然出てくる。
日本は、コミュニティの中にいる人達で助け合う社会でした。
戦前は、村落共同体の中で。高度成長期、集団就職などで共同体の構成員が大都市圏に移動した後は、企業共同体の中で。
高度経済成長期あたりから、日本の社会は高福祉国家モデルではなく右肩上がりの所得や企業年金などで全て賄う自助努力国家モデルとなっておりました。
要は、儲かった企業が個人の面倒を見るという仕組みになっており、国が零れ落ちた人の面倒を見ることに重視しておらず、その仕組みから外れた人々のことは目に入っておりませんでした。
だから、企業に利益が回らなくなり、個人の面倒を見る余裕がなくなると、途端に家族の生活もソーシャルキャピタル(社会的資本)も行き詰るようになりました。
家族へ求められる役割の重さが増え、あまりの重さに家族を見捨てる人達も出てきました。家族が同じ家族を“見捨てる”というだけではなく、社会の側もコミュニティの最小単位である家族を遺棄する社会となっていきました。
終活サービスに関わる人は言います。
「周死期というのが今の自分のテーマ。人が生まれる時は誰かが支えなくちゃいけないでしょ。周産期は、赤ちゃんもお母さんも出産の前と後を通して支える人が必要。じゃあ、死ぬ時もそうなんじゃないかと思うのね。」
管理している物件に孤独死を迎えた人が出た不動産屋が連絡を取る神社がございます。その物件をまた商品として扱えるよう、次の客に説明出来るよう神社にお祓いを依頼する。
死者を供養する為、僧侶を呼ぶのではなく、生者への説明の為に神主を呼ぶ。事故物件専門のお祓いをしている神主さんは言います。
「オウム以降、宗教は特定思想集団として一般市民に忌み嫌われるようになっちゃった。それは神主でも一緒なの。宗教は私達の日常生活から完全に離れているよね。
でも人の道徳観って何かと問われると、ほとんどの国は宗教なの。それが今は取り払われた。今の家には仏壇も神棚もない。死者を弔うとか供養するという気持ちもないよね。だから人=モノなんですよ。」
「こういう現場に長く携わっていると日本は長げえことないなと思うよ。日本人には最低限の人間の尊厳がないんだよ。生命の尊さはない。生命って本当はとてつもなく重いじゃない。それがないの。
日本はお金だけなんだよ。尊厳が与えられるのは、ごく一部の裕福な人たちだけなんだ。日本は経済的には復興したけど、精神的には疲弊しちゃったんだと思うよ。
『うちのアパートで店子さんが亡くなって可哀そうだったね』とその発想がないの。起こったことが嫌で迷惑なだけなの。そういうモノの考え方しか今の日本人は出来ない」
不動産屋の商売の一環として、自分にお祓いの依頼が来ることは神主さんにも分かっている。では、何故分かっていて依頼を受けるのか、という問いに神主さんは、こう答えました。
「だって亡くなった人にとって、俺が最後の砦なんだもの。自分で言うのもおかしいけどね。その人に『これまでの人生、大変だったね』と言えるのは俺しかいない。だから、どんな嫌なことにも耐えられる。
現場に行った時に式典が始まると、汚いという感覚とか、臭いとか、拝み始めると一気に消えるの。こういう亡くなり方をする人は葬式もやらないことも多い。
だから自分だけは『お疲れ様』と言って死者と初めて対話をする。儀式をすることによって神社として世の中の役に立つ。新しい形を確立したと俺は思っているの。
事故物件であっても、一応神主というのが来て、お祓いをしたんだ。それで、この物件に入ろうかなと思う人がいる。そんな宗教者としての役割が社会にあるなら俺としてはそれでいいんだ」
生命よりも経済を大切にするという論理で私達の社会は成り立っている。そして、その論理に抗おうとする人達もまたこの社会の中で暮らしている。
新しい慎古事記の話も四柱の神まで参りました。一番最初が、天之御中主神様。次が高御産巣日神様。三番目が神産巣日神様。そして宇摩志阿斯訶備比古遅神様、この神様がどういう神か。どういう風にお祀りするのかという話を私達は学んで参りました。
古事記の始まり、天地開闢の際に現れた神はもう一柱ございます。
天之常立神。この神までは古事記の中でもあまり語られない神となっているが、語られない神はいない神でなく、語られない神が大事な神ではないから語られないということはない。
むしろ大事なのが当たり前過ぎて語られないということもある。天之御中主神は水。高御産巣日神は土器、神に捧げる供物を載せる器。神産巣日神は塩。そして宇摩志阿斯訶備比古遅神は炭水化物。それぞれ大事なものの神。
では天之常立神は?もう一つ、そんなに語られていないのに、常に私達の身近にあって大事なものとはいったい何だろう?
私達にとって無くてはならない。常にあって、且つあまり目立たないものは何だろう?常に傍らにあって見えないけれども大切なもの。
見えない。けれど、どこにでもあるもの。それは空。「天を仰ぐ」という言葉がある。「お天道様の下」という言葉がある。私達の頭の上には常に空がある。あらためて意識することは少なくとも、常に天がある。
私達が水を尊んだのは太陽が映るから。そして塩を尊び、炭水化物を尊んだ。尊んだだけだった。ところがここからが概念が変わった。この神から神観念が始まった。拝む、ということがこの神の現れとともに生まれた。
この神が現れたことで私達は拝む対象を作り始めた。では何故そうなったのか?太陽は欲しいと思った。だから水を得た。海水を器に神に捧げたら、時間とともに器の中の水は消え、現れた塩を得た。
水も塩も生きていく為に必要なもの。炭水化物だって、それを得ればお腹はくちくなり、身体には力がみなぎり元気になる。ここまでには神様的な考えはない。
生きていく為に必要なものとして、あることを有り難く感じることはあっても、それは自分の身体でそれを実感出来るから。水や塩や炭水化物、生きていく為に必要なもので満たされた後、私達が一番最初に持った哲学のあらましである「祈る」という神観念が登場する。
天之常立神という神様は「天道」、天の道を表す。「お天道が見ている」「何をやっていてもお天道が見ている」そういう観念が日本に生まれたのは、この天道が生まれたから。
天道とはすなわち倫理観に他ならない。では一番の倫理観とは何だろう?
言いがちなのは、人を食べないこと。けれど飢饉に際して人が人を食べた記録など山ほどある。十戒に「人を食べてはいけない」という戒めがあるのは、食べていたものがいるからだ。
では人に一番最初に芽生えた倫理観。「お天道が見ている」という一番の倫理観の元とは何だろう?私達の想像する原初の倫理観の中で、「これが倫理です」というものは何だろう?
動物と人間の違いは、そこに哲学がないか、あるか。哲学の根本的なところには、そこに倫理観がある。じゃあ、その倫理とは何だろう?
倫理とは「天を仰ぐ」ということに他ならない。ひざまづいて手を合わせるということに他ならない。手を合わせることによって水を得ることもできる。ただし、水を得ない時に手を合わせるという行為は何の為に行うのか。
詫びることにもなる。願うことにもなる。分けることにもなる。掟にもなる。手を打った後、離さないで手を合わせ続けることが約束にもなる。合わせた手をそのまま崩さないで目の先まで上げる。上げた指の先にあるもの。これが倫理。
手を合わせる、この行為が倫理。神社で手を合わせる。お仏壇の前で手を合わせる。寒い時に手を合わせる。手を洗う時に手を合わせる。お願いごとをする時、手を合わせる。枕がない状態で眠る時に手を合わせる。合わせた手を枕の代わりにすることで、床や地面と顔が直接接触しないようにする。地面と身体を直接接触させたくないという倫理観。
手を合わせるということは、私達が倫理を示す時にしか行わない所作。私達が倫理的であります、ということを表す為の所作。この所作が天道。
手を合わせることだけが倫理観ではない。だが、私達が倫理的であるということを示す為の一番の行動は手を合わせるということ。
人以外に手を合わせるという行為を真似する動物がいる。熊は餌が欲しい時、人の前で手を合わせる。手を合わせる、という行動を取れば、人という生き物は自分に餌をくれるものだと熊は学んでいる。
人に向かって手を合わせれば、人は自分の為に何かしてくれるということを熊は経験則で学んでいる。他の動物から見た、人間という動物の一番の所作が手を合わせるということ。
手を合わせることが倫理。そういう感覚がない人も多い。何故なら現代の倫理とは法や戒めに括られているから。人を殺してはいけない。人から盗んではいけない。
けれど、そういう日常を支える当たり前の倫理は、戦場では別の倫理に取って変わられる。敵の兵士の命を奪うことを躊躇っては自分が殺される。子供の手から食べ物を奪い取って、自分の飢えを満たす。
日常では、子供の手から食物を奪う大人は非難される。だが、「生きる」「生き延びる」ということが絶対条件となっている場所で、この行為が倫理的でないと言えるだろうか。
もちろん「生きていくこと」が全ての倫理を従えられるわけではない。私達の国には自裁という方法があった。自分は倫理を犯したと考えた時、自らの死を持って、自らの罪を裁く方法があった。
生きていく、ということだけを考えれば、それぞれの人が持っている倫理観と生への執着は適合しない。ただ生きていくというだけならば、倫理観はいらない。
だが人間と動物の違いは哲学を持っているのか、否か。では「哲学がある」人間として生きていく。ここのさいていげんな倫。これは何だろう。
今、私達が考える倫理観は、ほとんどが西洋的。明治期以来に導入された倫理。キリスト教をバックボーンとした高度な思想体系の元に編まれた倫理観。
ここで私達が話しているのは、高度な思想体系のない、人としての哲学を持ち始めた頃の倫理観。倫理とは「やってはいけないこと」とは違う。倫の理と書いて倫理。
倫理観を犯す、となるとやってはいけないこととなるが、実は倫理とは「犯してはいけない」ことでは決してない。
水を得たことによって太陽を得たことが出来た、と私達は思う。これが哲学。何故ならば、「取り込めた」という考え方が得られた、ということ。これは動物には出来ない。動物とは、全く違う。
この哲学が根本的にあるなか、水を捨てる。これが倫理に反している。
塩を捨てる。偶然に得られた、全てを美味しくしてくれるものを自ら捨てる。これも倫理に反している。
めちゃくちゃ美味しくて食べれば元気になる炭水化物を捨てる。一粒たりとも捨ててはいけないのに捨てること。これも倫理に反している。
これらが倫理に反した行為。これらが倫理に反した行為なら、倫理とはこれらを大切にするということに他ならない。水や太陽や塩や炭水化物、食べ物を大切にしようと思う、大切にしようと考える。これが倫理。そして、その形が手を合わせるということに繋がっている。
一番最初に私達が得ようとしてしていたもの。太陽が手を合わせるという行為の指先の上にある。従って手を合わせ指先を天に向けて仰ぐ形を倫理の形という。
何かお願いする時、詫びる時、私達が手を合わせるのは、それが倫理的であるということを示している。だから、言葉として願うことが出来る。だから、言葉として詫びることが出来る。
この行為を宗教に中に入れ、神道の中に入れたことが拝、拝むという所作に他ならない。天道とは、すなわち手を合わせるということ。
犯さない、盗まない、嘘をつかない。こんなものは倫理でも何でもない。やってはいけないと言っているだけ。倫理ではなく、諫め、掟。
倫理とは諫めでも何でもない。理の元になるもの。そして、それは私達にとって「天」ということに他ならない。常にある。
部屋の中に入ってしまえば天は見えない。空となる。そして部屋の中でも天上はある。見上げていられるもの。私達が得ようとしても得られないものが行き交う場所。
私達が得ようとした時に上から施されるものが降ってくる先。全ては天にある。天之常立神という神様は、そういった倫理観に、私達の倫理によって守られている神様。
神を拝む。手を合わせ神を拝む。この時に神にお願いしてはいけない。日本の神は願いを叶える為におられるのではない。神に手を合わせる。神に己の倫理の形を見せる。手を合わせるだけの行為をする。この行為が次の神様の語りへと繋がることとなる。
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