【第9回】 ウヒヂニからオオトノベ

 その地域に住むものにとっては何の不思議もないことが、他地域に住むものにとってはとても不思議に映ることが時に起こります。
分かりやすい例で言えば祭り。自衛官を父に持つ友人は「長野の御柱祭りにだけは行くな」と固く戒められたそうです。曰く
「あの状態で山を下るなんて、自衛官として信じられない。いつ事故が起きても不思議ではないから行くな」
危険が伴うゆえに安全管理が欠かせない職業の人からすると、「安全ベルトをつけない」という時点でout。まして丸太に乗って山を下るとなれば、安全管理委員会の議題となっても何の不思議もありません。

 

 

もっとも、そのように言う自衛隊も人のことを言えるのか?と言う点はありまして。

防衛大学校の伝統競技である棒倒しも、その動画を見た外国人が

「クレージー!」

と驚愕する程度には危険が伴う競技であるのですが

「クレージー!」

という言葉とともに

「楽しそう」

「自分もやりたい」

「この動画をもっと見たい」

という反応が返ってくるところを見ると、危険が伴う激しい行為が故に人を惹きつけるという二律背反の出来事は世界あちこちにあるようで、スペインの牛追い祭り、エルサルバドルの火の玉祭り、イギリスのチーズ転がしと怪我や事故がつきものの祭りは世界中に珍しくありません。

危険だと分かっているのに、何故続けられるのか?それは、そのことを必要とする人達がいるからです。

一見不合理に見えても、続けられるからには続けられるだけの理由がある。続けるよう強いられるのではない限り、人は己に不利益を与えることは続けない。

不合理に見える人の目には、何が行うことで得られる利益なのかが見えていないだけのこと。

作家、篠田節子は「弥勒」という長編で都市と地方の差が激しい宗教が強い力を持つ国で国を憂いた大臣が革命を起こし、宗教を禁じ、都市の住民を強制的に地方に移住させ国を改革しようとしたことで起きた悲劇を描きました。

この国の停滞は宗教が強い力を持つからだ、と宗教を禁じ寺院を破壊したことで、土地の生産量では養いきれない人々を僧侶とすることで保っていたシステムが壊れた。

都市から追い立てられた人々がやって来た土地は無理な開墾で荒れ、人々は飢えと病に倒れ、貧しい人々を救おうと革命を起こした大臣は、富める者も貧しい者も等しく地獄に落としました。

地獄への道は善意で敷き詰められている。智慧のない善意は悪しか生み出さない。世界は微妙なバランスで成り立っているということを理解していない者の目には、己が見たいものしか映りませんでした。

対照的な話がもう一つございます。萩尾望都の短編に「偽王」という作品がございます。ヴァルー・ファルーという美しい国から旅を続けていた青年が、贖罪者の話を耳にします。

それは「罪を贖う生贄として」神に捧げられた者で、額に印を押され、目を打たれ、去勢され、放浪しているのだと。

人々は忌み嫌いながらも、神に捧げられたという理由で殺すようなことはしない。

贖罪者の烙印を押され、彷徨う間に半ば狂っていた男は自分をかまってくれて青年に訴えます。

自分はヴァルー・ファルーの王であったと。あがないの祭の年に国のとがを背負って追放された、と。

青年は贖罪者を追い払うことはせず、ともに旅を続けます。旅の間、贖罪者は青年に語り続けます。

まだ子供の者が新しい「王」となり、数十年の在位の後、あがないの祭りを迎えたと。

青年と旅を続ける間に、だんだんと贖罪者は正気を取り戻していきます。そして完全に正気を取り戻した時。贖罪者はヴァルー・ファルーに向かう青年と別れようとします。

ヴァルー・ファルーに戻れば自分は殺される。だから、戻らないと。その時、青年は贖罪者に告げます。

自分が探していた相手はおまえだと。あがないの祭りは狂乱の祭。祭の王は何をしても許される。全ての獣性が解放される。犯すことも殺すことも祭りの間は許される。

まだ少年だった青年は、姉と共に祭りに酔う王の犠牲となった。祭りの間、王は何をしても許される。

そして祭が終わった後、王は国の咎を背負って、烙印を押され贖罪者として追放されます。

そしてヴァルー・ファルーは、また美しく平和な国へと戻る。

自分は何故生贄として選ばれたのか?過去の経験が忘れられず、その理由、その意味を求めて旅を続けた青年は、贖罪者となった王と出会い、旅の目的を達成させたことで己の過去から解放されます。

二つの物語は、語られる内容こそ違え「何故、自分なのか?」という問いを抱えた主人公が己の答えを見つけたところで終わるのです。

それだけが神ならぬ身に許された自由の得かたなのでしょう。

「神への供物として人が捧げてきたものは何でしょう?」

  2月の講座は、宗匠の問いから始まりました。神に捧げるものとして最も相応しいものだと人が考えてきたものは何でしょう?

それは、人が一番最初に神としたのは何か?ということを考えれば、ごく自然に浮かんでまいります。

人が最初に神としたのは太陽。あれが欲しい、手に入れたいとアフリカから極東まで遠い遠い旅路を続けてまで追い求めてきたのは太陽。

追い求め続け、それでも手に入れることが出来ないと絶望し、神とすることで手に入れられないことを納得させたのは太陽。t

太陽が天にある時、人は眩しすぎて見つめることが出来ません。人が太陽を見つめられるのは、太陽が東の空から昇る時。あるいは西の空へと沈む時。

人が見つめられる程度の輝きを放つ時、太陽はどんな色で輝く?黄金から朱金へ。朱金から鮮やかな赤へ。

人が太陽を見つめる時、太陽は赤く輝く。すなわち赤いものには力が宿る。人がそう思っても不思議はない

赤には力が宿る。従って神に捧げるものは赤がいい。それも出来るだけ鮮やかな赤が。人がそう思った時、いったい何を捧げるのか?

それは世界共通で決まっている。そう血がいい。日本の神が血を厭う?それは日本の神のことをよく知らないが故の誤解。

神への供物に魚だけでなく、鳥や獣を捧げていた記録を記した図絵は今でも残っている。

大事な御方に血を捧げる。最も尊い御方に血を捧げる。

では一番相応しい血は何だ?その答えは各地の物語に残っている。神はアブラハムに息子イサクを生贄に捧げるよう命じた。

孔明は河の神への捧げものとして、人を生贄にする代わりに、小麦粉を練って饅頭を作り、人の頭の代わりにそれを神に捧げた。

アステカ人は太陽の不滅を祈って、人の心臓を神殿に捧げた。

人は、最も大事なものを神を捧げた。捧げる役目を担う者も、捧げられる役目を担う者も共に酒や薬に酔い、祭りの高揚感の中で神に供物を捧げた。

神の力が人に分け与えられることを願って、人々は供物を捧げた。貴方の素晴らしい力をお分けいただく為に、貴方と同じ色を持つ最も大事なものを捧げましょう。

ところが困ったことが一つある。血が鮮やかな赤を放つのは、それが流れている時だけ。地面に落ちれば血は流れない。冷えて固まり黒くなる。

黒いものでは天におられるあの御方に何を捧げたのかが伝わらない。天におられる太陽に人が何が捧げたのかを分かっていただく為には、捧げているものが血だとすぐ分かる画面が必要。

人は供物を板の上に載せる。白木の板の上ならば流れる血の赤さが映える。この板の上にあるものは全て貴方様への捧げものだと高い点におられる神にも伝わる。

こうして人は神への供物を折敷に並べることを覚える。この板の上に載せられたものは聖別された清らかなもの。神へと捧げられたもの。

人は神を畏れる。最も大事なものを捧げるほど畏れる。神は人には何もしない。けれど人は神に何かを捧げなければ、神がお怒りになるのではないかと怖れる。

畏れるから神が怒らないように祀り、畏れるから神が鎮まるように供物を捧げ、畏れるから神を楽しませるように神楽を舞う。

神楽は神への畏怖がないと神楽にならない。そして神への畏怖があるから生の楽しみがある。

人の力ではどうにもならない御方が自分とともにある。それが人が生きることを支える。人の利だけではなく、神の理で人の世を眺める視点を与える。

人は板の上に神への捧げものを並べる。貴方様への贄をこの上に捧げますという境界の画面として板の上に供物を並べて示す。

そうすることで神様に捧げるものが地面と離れる。

宇比地邇神・須比智邇神・角杙神・活杙神・意富斗能地神・大斗乃弁神・淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神

神々の名は、それぞれどんな神事が行われたのかを示している。それぞれの部族が自分の奉じる神にどんな神事を行っていたのかを示している。

そしてどの神も神への供物は板の上に捧げられる。異なる神事を持つ者達が、板の上で神に供物を捧げるということで共通項が出来る。

異なる言葉を持つ者達が、折敷という共通項を持つ。地面から離れ、天からは良く見える画面の上に神への捧げものを並べるという共通項が出来る。

つまり、これが多様性。板の上に載せている供物が部族によって異なっても板の上に載っているものは神への捧げもの、という共通項が出来る。

板の前は、葉だった。植物で編んだ筵の上に神への供物に載せた。神への供物を地面と切り離した。

人の手が加わったものの上に神への供物を載せた。筵は自然のものではない。人の手で編まれたもの。

板は自然のものではない。人の手で切り倒し作ったもの。神に自分は、これだけのものを作れる技術がございます、と示せるもの。

日本語が一つと思っているのは日本人だけ。これだけ方言の違いがあれば大陸の国々だったら別の国となる。

ドイツ語と英語。スペイン語とポルトガル語。それぞれの国の言葉の違いは大阪弁と東京弁の違いくらしかない。

地方料理の多彩さを示すように、日本料理はそれぞれの産地によって食べるものが違う。言葉が違う。食べるものが違う。神への捧げものも地域によって異なる。

共通するものは、お水・塩・酒・飯それだけ。けれど板に載っている供物は神への捧げもの。日本人ならそう分かる。

板の上は多様性のるつぼ。話す言葉が違う。神への供物が違う。でも地面ではなく、板の上に神への供物を並べているのをみれば何をしているのか分かる。

何をしているのが分かれば、異質ではない。言葉が違っても、食べるものが違っても敵ではない。

神事が同じということ。すなわち同族であるということ。言葉が違っても敵ではない、ということ。同じ畏れ方をしているということ。そういう情報の共有が出来た。

従って、板の上に神への供物を並べないものは異質となった。地面に神への供物を捧げるものは土蜘蛛。自分達とは同族でないもの。

人の手が加わったものの上に神の供物を並べられる。板の上に供物を並べないものは、それだけの技術がないもの。

神に己の技術を示せないもの。己が一族より力が劣るもの。己が支配してもいいもの。

日本人は板の上に多様性を作った。恐ろしさから身を護る為に多様性を作った。そして、その恐ろしさが、それぞれの神を祀る日本の一族達を発展させていく。

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