どうやら今の内閣は人に恵まれていないようでして。辞任ドミノと言われるくらい閣僚の更迭が相次いだかと思えば、今度は秘書官まで失言で更迭しなければならないと、総理もなかなか苦労が絶えません。
好き嫌いは誰にでもあることで、何が好きで何が嫌いかを語るのも個人の自由ですが、政治家の秘書が人前で言って良いことと、言って悪いことをわきまえていないあたり、やはり霞が関に集う方々じゃ、時代の感覚を掴むのが遅い。
映画でもマンガでも小説でも、同性愛者が登場する名作と呼ばれる作品は半世紀以上前からいくらでもありますし、同性愛者の両親に育てられた子どもの視点から紡いだ物語はマンガだけでも複数ございます。
そういう古いマンガの一つにこういう会話から始まる話があります。
「ねえ、子供はどうやったら出来るの?」
人によっては、(来た、来た。うちの子にもそういう質問をする年頃がやってきた!ここは大人としてちゃんと答えないと!)と内心ギュッと両手を握り締める言葉に、父親は軽く答えます。
「子供か、子供はな~避妊に失敗すると出来るんだ」
すかさず娘は訊ねます。
「私も避妊に失敗して出来たの?」
父親は笑いながら答える。
「そうそう、凄い大失敗。二人とも、もう真っ青。あの時は、二人ともベロンベロンに酔ってたからな」
そう言った後、父親は娘を抱きしめながら言う
「でもなあ、失敗はいつまでも失敗で終わらないということを、人は子供によって学ぶんだ」
そうして抱きしめた娘を撫でながら
「おまえにも、そろそろ避妊の仕方を教えないとな」
という父親と
「失敗する為に習うの?」
と尋ねる娘。仲の良い父子の会話を震えながら聞いていたもう一人の父親がついに耐え切れず怒鳴りだす。
「どういう会話をしてるんだ、おまえ達は!」
父親は、「子供に向かって言うことか!」と散々パートナーからお説教をくらったが、それでも、その後の夕食は和やかに進む。翌日、学校で子供が出された課題は「家族の絵」
「あなたのところは、どっちのパパに似てるの?」
友達に訊ねられた娘は考える。私は、どっちのパパにも似ていない。私は、あのアルバムの女の人に似ている。
古いアルバムの写真。いつも一緒の4人組。二人はパパ達。残り二人は、どうしていないの?
娘は、ある時、いつも明るい父親達が深刻な表情で話しあっているのを目にする。
「あの子も、もう十一歳。そろそろ俺達が本当の親でないことを言わないと」
「そ、そういうのは俺苦手だ。あの子に話すのは、おまえに任せる!」
「ずるいぞ、それは!」
二人の会話を盗み聞きした娘は、頭をおさえる。知っているわよ、そんなこと。
避妊に失敗したって誰が?酷い事故だったって誰が?
「まあ、私はパパ達が私のことを愛しているのを知っているから、自分の本当の親が誰かってことはどうでもいいんだけどね」
学校で友達に向かってそう話す娘に聞いていた級友達は呆れ顔で応える。
「君んちパパは、今時の小学生が男同士で子供が出来ないことくらい知らないとでも思っているのか?」
「ゲイってどこかずれてるな~」
どんなことも起こってみなければ良いことか悪いことかは分からない。ものごとが予定通りに進むとばかりは限らない。
失敗が新しいものを生み出す土壌となることはよくあること。失敗から生まれた子供は仲の良い両親のもと、愛されて育つ「普通」の少女となった。
今回、宗匠が語られる神は豊雲野。この神は、世間一般で呼ばれる呼び方と宗匠のお家に伝わる呼び方と二つの呼び方がございます。
世間一般で呼ばれる呼び方は「トヨクモノ」、宗匠のお家に伝わる呼び方は「トヨクモニ」
ノもニも「トヨクモ」という言葉への助詞でございます。
「トヨクモノ」と言えば、とよくも自体を表し、「トヨクモニ」と言えば「とよくもに対する」という意味に変わります。
「とよくよのもの」という場合は「トヨクモノ」という言葉となり、「とよくもに何かを捧げる」場合は「トヨクモニ」という言葉となる。
神の名に助詞がつくのは珍しいことではありません。「つくよみのみこと」「すさのおのみこと」
助詞が「の」の場合は、「つくよみ」という神の名前の本体と「みこと」は、同じものを指している。
助詞が「に」の場合は「とよくも」という神の名前とその下に続く言葉は同じものではない。
最初の語りは天之御中主。次いで高御産巣日と神産巣日が現れ、宇摩志阿斯訶備比古遅神が登場し、天之常立、国之常立と続き、それぞれの神を祀る形態があることを、宗匠は私達に語られました。
宗匠がそれぞれの神の祀り方を語られたのは、私達にそれぞれの神への敬意の表し方を伝える為だけではなく、祀る形態を勉強することによって私達の神観念をより豊かに育てることが出来るからでした。
では「神観念」とはいったい何なのか?「神」とは、すなわち「かみ」。
「かみ」という音が表す言葉は、日本語には幾つあるだろう?
「紙」という物質を指す言葉でもあり、「上」という位置を表す言葉でもあり、「加味」といえば食品に味を加え、上位者への敬称「上の人」という意味での「上」もある。
私達の頭の毛のことを「髪」と言い、旅館の采配を司る女性は「女将」と呼ぶ。
「かみ」という言葉が捉えている物事はこれほど多様にある。私達は「かみ」を、どのようにして思うのか。
「かみかんねん」という音だけだったら「GOD」だけではなく、色々な観念を引き出すことが出来る。
すなわち「かみ」という音は、かなり多彩であり、多様であると考えて良い。なので「かみ」の祀り方によって、その神様を召喚する。
ここで「召喚する」という言葉を「呼び出す」と捉えると間違う。西洋の魔術師が魔法陣を描いて、己の望みを叶える為に人ならぬ存在を呼び出す光景を思い浮かべると間違う。
日本の神は、呼び出さなくてもその場におわす。
日本の神が、中国や欧州、大陸の神々と異なる点はここにある。日本の神様は、そこにおわす。
日本の神は、人の目の前におわす。もしくは人の横におわすという考え方が常にある。「かみ」という言葉が示す多様性。
「かみ」は「紙」であり「髪」であり「上」である。全てに「神」が存在する。全てのものに神性が宿る。
けれど万物に宿った神性を見出すということは、それほど容易いことではない。目の前の事象に惑わされず、神を感得すること。
「ここに神がおわします」と感じとることは、便利さに慣れた現代人には難しい。
人の善性に、優れた技に、思わず息を吐きたくなる美しい光景に、そこ宿る神を感じ取ることが出来るのか?
万物に宿る神を感得出来るのか?目の前で繰り広げられる事象の中かなら、神を感じ取れる程の繊細で豊かな観念を私達は持っているのか?
万物の中から神を見出し斎姫と崇められた上代の女性達。現れた光景に神を見出し、歌として残した歌人。細やかな変化に宿る兆候を神からの言葉と受け取って、すぐさま災厄から身を護る手段を取ってきた海人山人。
かつて、この国には神様を感得出来るアンテナを持っている人々が大勢いた。かつて大勢いた人々は時代とともに減っていった。
神を感得出来ない人が増えた。万物に宿る神の言葉を理解できない人が増えた。神とは己の願望を叶える存在ではない、ということを理解できない人が増えた。
だから、宗匠は語られる。私達が神を捉えてきた歴史を。どのようにして、先の時代を生きた人々が神を感得してきたかを。
私達が、今も神様を隣においておける為にいったい何が必要なのかを。
私達の先祖は、土器を得られた。炭水化物を、米を得られた。土器に米を保存するという方法も得られた。
そして土器に入れておいた米が腐ってしまうという悲しむべき事態が起きた時、それまで知らなかった新しいものを得られた。
大事な米が腐ってしまうという事態が起きた時、私達の先祖は捨てるという方法を取らなかった。
貴重な米を捨てるなんて、そんな勿体ないことは出来なかった。腐ってしまった米でも食べた。
そうしたら、痛みが取れる、という思いがけないことが起こった。この腐った米を食べると辛いことがなくなる。痛みが薄れるということが起こると分かった。
この不思議な米が出来たのは、ほんの偶然。土器に水を入れ、大事な米を炊いた。ところが炊いた後すぐに食べる機会を逃し、そのまま土器に入れ朝まで放っておいた。
放っておいた米をあらためて食べようとした時、何故か炊いた米は粥のように変わり、酸っぱいけれどワクワクするような香りがした。
米は発酵するとアルコールが上がる。酒に弱い人はアルコールの香りだけで酔う。香りに酔ったということが分からなくても、ワクワクする香りに魅かれ、見たこともない状態になった米を口にしてみた。
米は、甘くて酸っぱくて、飲めば飲むほど痛みが無くなった。
この不思議なものは「神」だと人は考えた。痛みを取ってくれる不思議な飲み物。これを神だと思うのは自然なこと。
それまで痛みを取ってくれる神様などいなかった。水を汲みに行く時に砂利で足を傷つけても、神様は痛みを取ってくれない。
米を収穫するまでにどれほど苦労を重ねても、神様は痛んだ腰や手足を癒してはくれない。
けれど、土器の中に現れた米から出来た不思議なものは痛みを取ってくれる。新しい神が生まれる。
痛みを取ってくれる不思議な食べ物の情報は人々の間であっという間に広がる。米を土器で炊いて、一日置くと出来る、香ばしい芳しい匂いのする口に入れると少しピリッとするもの。けれど悪くはない。食べたら拙いという感覚はしない。
人間の舌というのは、とても有能で敏感。自分の身体に害をなすものには口に入れた段階で拒絶する。舐めた瞬間に拙いと分かる。
体質的にアルコールがダメな人は、匂いだけでも避けたがる。偶然生まれた不思議なものを口にすることが出来たのは、体質的にアルコールに強いもの。
この時代の酒は、今私達が思い浮かべる酒とは異なる。清酒が生まれるのは室町期を過ぎるまで待たないといけない。
どぶろくよりも粥に近い。アルコール風味の粥のようなもの。アルコール度数も低く、現代人が飲んでも美味しいと思うようなものではない。
だが、この原初の酒は飲むと痛みが無くなった。身体の痛みを減らしてくれるものなら人は喜んで飲む。
大人だけではない。痛さに泣く子供にも薬として飲ませる。もちろん当時米は貴重なもの。米から出来る酒は更に貴重なもの。
ふんだんに飲めるものではない。だが、その貴重な酒を酔うほど飲める時がある。
普段飲めない貴重な酒を飲みたいだけ、飲んでも許される時がある。
人は酒に酔ったらどうなるか?気持ち良くなる。気持ち良くなって、そしてどうなるか?歌いだす、踊りだす。これは故のないことではない。
生きている限り、人の心臓は動いている。アルコールは血液の流れを早め、心臓の鼓動を高める。高まった自分の鼓動を耳にした人は、その鼓動を表現したくなる。これが音楽の始まり。
「手を叩いてみなさい」という言葉に従って手を叩いた時、たいていその速度は手を叩いた人の心音と同じ。
拍手は手拍子よりも早く打つ。だが、手拍子の速さも心音と関係がないわけではない。速さの速度が心音と同じだったり、心音の倍速だったりする違い。
運動会の行進の時に流れる曲はマーチ。何故、様々な曲の中でマーチが選ばれるのか?それはマーチをかけると行進する人達の足が揃うから。
マーチのテンポは心音と同じ。心音のテンポで歩くと人は歩きやすい。60進法がこれだけ世界中に広まっているのは、それは人の鼓動と関係しているから。
地球が一周廻ることを一単元としている60というのは、心臓と全く同じ動きをしている。60進法と人間の身体と地球はリンクしている。
アルコールが心臓に入ると鼓動はマーチのテンポよりも早くなる。すると人はそのリズムに乗りたくなる。鼓動の速さに合わせて表現したくなる。
逆に大きく息を吹い、ゆっくりと吐く。マーチのテンポより脈音が遅くなる。こういう時に奏でたくなる音楽もある。月を見ている時、星を眺めている時。
いつもよりゆっくりとした脈音にあったリズムの音楽に浸りたくなる。このように音楽の出来方は非常に肉体に影響される。そして絶対に奏でる。
肉体のリズムに影響されて歌いたくなるのは人間だけではない。海の中でクジラも歌う。森の中で猿も歌う。鳥も歌う。蛙も歌う。
生きとし生けるものは全て、心音に従って声を発したり手を叩いたりする。ただし、人間以外の生きものは状況か自分の体の組成でしか音楽を奏でない。
ところが人は一つ何かを飲んだら、違う心音を打つようになる。これで痛みが和らぎ、苦しみから解放されると分かったら老若男女やる。
痛みを無くしてくれる不思議な飲み物を造る為の土器を作ることが流行り、酒が出来て、楽しくなったら人が寄る。
酒は飲むとは言わない。過ごすと言う。飲むというのは、水のようにすぐ飲み干すものの時に使われる。酒は時間をかけていただくから過ごすと言う。
酒は液体ではない。神のものだから時間が必要。なので酒をいただく時の動詞には時間が伴う。
酒は、過ごすと人と話したくなる。音楽を奏でたくなる。音楽を奏でたくなると、情報と同じく人と共有したくなる。
酒を飲む量が同じなら、集っている人達の心拍数も同じになる。心拍数が同じなら、自分ではない相手と共感がしやすくなる。
共感できる心拍数で手を叩きたくなる。足を踏み鳴らしたくなる。共感を表す為に楽器が生まれる。
この共感を生み出すのが酒。「あめのとよくも」に捧げるもの。「あめのとよくも」の捧げではなく「あめのとよくも」に捧げるもの。
では「あめのとよくも」とは何だろう?「とよくも」とは群がっているもの。群がっているものに捧げる。群がっているからやる。
すなわち「とよくも」というのは天の雲ではなく、地にわくわくしているもの。「あめ」とは美しいという意味。では何が美しいのか?
それは音楽だったり、歌だったり、話だったり、痛みからの解放だったり、人が賛美を捧げたくなるもの。
しかし、それらを生み出す酒は無尽蔵にあるわけではない。米は貴重なもの。米から生み出される酒は更に貴重なもの。
だから酒は計画的に作られ、計画的に使われていた。では何を優先して使われていたのか?それは群衆に捧げる為。状況を楽しむ為。
群衆を楽しませる為に酒を捧げられるものが神となる。酒を捧げられて喜ぶ姿で、酒を捧げたものに喜びを与えるものが神となる。
酒を媒介として共感が生まれる。酒につられて集まってきた人達は情報を持っている。このような人達をまれびとと呼ぶ。
反対に酒を提供する人達は酒と引き換えに自分達の持たない情報を得られる。お互いにとって喜びと満足が得られる関係が生まれる。
「あめのとよくもに」は、「美しいワクワクしている人達」という読み方以外に別の読み方も出来る。
「あ、めのと、よくもに」なんて、素晴らしい夫婦の国でしょう!イザナギ、イザナミの二神が日本最初の夫婦だったという。
けれど女だけでは子供は生まれない。男だけでは子供は生まれない。生物は種を残す。より強い種を残したいのは動物の本能。
近隣に住む同族達とつがうだけでは血が濃くなり過ぎる。自分達とは異なる血、自分達とは血が遠いものが望ましい。
酒につられてまれびと達がやってくる。宴が始まる。やって来るものと迎えるもの。酒を媒介して共感するもの。ともに酒に酔わされたもの達は共寝をする。
酒が入れば、見知らぬよそ者でも共寝が出来る。そうして祭が終われば、新しい血を引く子供が生まれる。
酒が平時の正気を失わせ、共感を生み出し、新しいものが生まれる。故に酒が神となる。
酒という神が生まれたことで神器が三つ揃った。水玉、お皿、瓶子。この三つの神器が揃って、くにが成立する。Communityが成立する。Communicationが成立する。
酒がない時は、Communityしかない。酒を得たことによって人はCommunicationを得た。他者とのcontactが可能となった。
ただ集まっているだけではなく、酒が入ることによって他者の血が入り、情報が入る。それも共有することが出来る。
それまでは「水はどうやったら得られるか」「お塩はどうやって使ったらいいのか」「お米はどうやって育てたらいいのか」人間にとってなくてはならないことしか神にはならなかった。
ところが、人は酒を得る事によって共感と情報を得た。痛みが取れて、少し気持ち良くなったら人は口が軽くなる。
大事な塩の製法を、上手な稲の育て方を、水が漏れない土器の作り方を。自分達の間だけで共有しておきたい情報を、酒を与えてくれた相手に漏らしてしまう。
だから人は酒を振る舞う。酒を過ごして、楽しい気分を共有できる時間を計画的に作り出す。
酒を手に入れることによって、人は一つ神観念が深まった。水、塩、米、それまでの神は人以外のものだった。
酒を得たことによって、人は人という神を得た。新しい情報、新しい血、今まで自分達になかったものをもたらすもの。そういうものを神と呼ぶことに何の不思議があるだろう。
人を神にするもの。故に酒は神となる。
そしてまた酒が招くのは良いことばかりとは限らない。酒は人を神にも魔にもする。成功も失敗も招く。幸運も禍も招く。人は酒を管理しきれない。
どこまでが人の益になるのか、どこまでが人の害になるのか、人には測りかねるもの。人には掴みきれないもの。だから酒は神となる。畏れを籠めて神となる。
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