今月の古事記講座の翌日にNYタイムズが
「鬼滅の刃の初週の興業数値が日本以外の全世界の興業数値を合算したものを上回った」
と報じたことを知って、うわあ、なんてタイムリー。こういうのってシンクロニシティっていうのかな?と思いました。
「この神は、災害から立ち直ろうとする日本人の心の動きを神にしている」
というお話をお聞きした翌日にこれですもの。
ハリウッドの映画スタジオや劇場のオーナーが州政府に「特別の救済」を提供するように声明をだし、政府の支援がなければ映画館運営会社の70%が破産を強いられることになると警告しているアメリカで、このニュースが大きく報じられても不思議じゃないですものね。
災害の多い日本で災害に心を潰されず、痛みを抱えたまま乗り越えてきた日本人の精神文化史を二月続けてお聞きした後に、このニュースを知ると、なるほどこれは日本人の強みだな、という気もするし、戦略的に世界に影響を与えようとすると大抵失敗するのに、世界への影響なんてまったく考えないで自分達の楽しみや自分達の生活の為に行ったことが世界へ大きな影響を与えるあたり日本て面白い国だな、と思いました。
(まあ、だからそのあたりのギャップを理解して、国外で日本の価値を高める為に力を尽くした人は、国内ではあまり評価されなかったり、海外での評価が逆輸入される形で国内での再評価が起こるなんてこともあるのだけれど。
印象派と浮世絵の仲立ちをした画商の評価なんて国内ではボロボロですものね。その死に際して印象派の巨匠達が「日本とフランスの文化の最大の理解者」と最大級の弔辞を送っているのに)
自身の行動が遠い異国の誰かに希望を与えるなんて、日本人は欠片も思わないだろうけど。
前回の豊雲野神も災害に対峙する日本人の精神というので凄く面白かったのだけれど、お聞きしたものを整理する為にまとめようとすると凄く時間がかかりまして。
結局まとめきる前に今月の講座の日になってしまいました。お話自体は凄く納得感があって面白いものだったのだけど
「宮沢賢治は日本一のコメディアン。死を意識した重さで笑わせる。西の笑いはライト、東北の笑いはズーン。ズーンとくる笑い。あれが日本人の笑い」
という言葉を人に誤解させずに伝えることができるか自信がなくて。
宮沢賢治の生きた時代の岩手というのは、冷夏に地震に三陸大津波ですから、宮沢賢治の笑いの背景にある絶望と諦観。そこから生み出される透明な美しさを考えると
「あれが日本人の笑い」「宮沢賢治は日本一のコメディアン」
という言葉には、なんの違和感もなくて素直に納得できたのですが、これ分からない人もいるだろうな、分からない人の誤解を招くような書き方をするのは嫌だな、と思ってるうちに時間ばかりがかかってしまいました。
(もっとも西の笑いはライトと言っても浪花小喜劇でくたびれたおっちゃんが
「おっちゃん、大丈夫か?」
と聞かれて
「もうあかんわ」
と泣き笑いで応える場面はありそうなので、ライトな笑いの中に絶望と諦観が含まれていることも珍しくないのでしょうけど)
今回の講座、いきなり難しい問いを投げられましたね。
「神様ってなんだろう?
科学で神様はいません。工業や科学では神様という観念はない。
医術は神様が始めたという話もあるけれど、神様が何とかしてくれるより点滴の方が身体に効いたりする。
なのに、人は神を奉じる。神様とは何でしょうか?」
この問いを聞いた時に連想したのは氷室冴子さんの「金の海銀の大地」の一説で(あれも古事記を元にした話でしたね。古事記といっても伊久米の大王の時代の話だけど)
「人が誰かを愛するのは祈りに似ているわ。人が神に祈るのは己が無力だからよ。己の無力さを知った時、人は神に祈るのよ」
年稚く傲岸だった王子が首長となる直前、一族を護る為に生き残りをかけて他豪族の古強者達と渡り合い闘い続けなければならない日々がすぐそこまで来ている段階で言われた言葉だったのですが、それはまあ横に置いて、この言葉が頭のどこかに残っていたせいか
「神様のありようが日本人と西洋人は違う。西洋の神は幸福からくる。日本の神は苦痛からきている」
という言葉にも疑問は浮かばなかったのです。
今どんどん科学が進んでいるそうですね。お医者さん達から「気をつけないと健康保険制度を骨抜きにされる」と警戒する言葉が出るのは、治療技術の進歩の速さを知っているからで、アメリカのように進歩の恩恵を富裕層だけが受けられる社会にしたい人達がいることが分かっているからでしょう。
すでに脳をナノ単位で可視化できるようになってきたた。人が幸福感を得た時、どういう脳内物質が出ているかも分かるようになってきた。
西洋人は幸福を感じる脳内物質が沢山出ている時、幸福感を得ている時に神を感じる。
生きるということは楽しいことだけではありません。
特に昔の西洋は、アジア圏、アフリカ園に比べると人が生きていくのは厳しい。十字軍が実質は豊かなイスラム教圏への侵略だったように中世までの西洋は貧しい。
生きていくなら強奪やむなしの時代もあったのです。(フランスの地名にノルマンディーという地名があるくらいですから、西洋領域内での奪い合いも珍しいことではなかったですしね)
厳しい日常生活から救い出してくれるもの。苦しい生活と神の愛が結びついて、神がここから救い出してくれる。美しい違う世界に連れて行ってくれるというのが西洋の神。
日本の神は苦痛から来ている。大災害、とくに台風から来ている。可視化した苦痛が網様を感じさせる。
この痛みや苦痛を軽減してくれるもの。痛みから化現させないとならないものが日本の神。
痛みというのは心の痛み。人の心にダイレクトに苦痛を与えるもの。
では日本人の心にダイレクトに苦痛を、悲しみを与えたものはなんでしょう?
人間は、それが悲しいと意識しなければ悲しくはない。それが当たり前だと思っていれば悲しくはない。
現代人は人が死ぬと悲しい。それは現代日本では死が身近な存在ではないから。死が当たり前の時代、生のすぐ隣に死があった時代には、死は悲しむものではなく受け入れなければならないものでした。
7歳までは神のうち。7歳までは生き残ったことを祝って七五三をするくらい子供はよく死ぬものだった。
子供だけでない。大人もよく死ぬ。病気で、怪我で。悼み、悲しみ、けれどそういうものだと受け入れなければならないものだった。
そういう日本人の心に癒されない傷を残す苦痛は何か?
人間の本質的な喪失感は子供の頃に全員が経験している。人間は自分の作った構造物が自分以外のものによって壊される時の喪失感が一番悲しい。
それが何故?へとつながっていく。
お砂場で作った泥団子を誰かが壊す。一生懸命作った砂山を誰かが蹴散らす。
台風が、せっかく広げた田の畝を切る。川から溢れた水が泥となって田を押し流す。
家が吹き飛ばされて壊れる。集落ごと村が流される。
地面と知恵が亡くなる喪失感。私達は、それを子供の頃の泥遊びで経験している。
お砂場で一生懸命作った砂山を壊された子供は泣きながら手を動かす。泣いていることも気づかないまま、もう一度失われたものを作ろうとする。
悲しいという心の動きが手を動かす。納得できない苦痛が手を動かす。人間は、その時こそが成長していく。
人の痛みは砂場で覚える。心豊かということはそれだけハードディスクに傷をつけられたということ。
ハードディスクは傷をつけることで記憶を記録させていく。心も脳も同じ。傷をつけて覚えていく。傷を乗り越えて成長していく。
けれど傷は消えない。残っていく。残った傷の多さがその人を豊かにする。
復興は上に言われてするのではない。何も言われなくても崩れた瓦礫を前に人は手が動く。瓦礫を片付け、道を直そうとする。
失われたものを取りもどし、苦痛を乗り越えようとする。この心の動きを神にしたのがこの二柱の神。
宇比地邇神・須比智邇神。地面から血が出る。知恵が出る。離しても離しても離れない同じ血が流れている。
それを教えてくれるのがこの兄妹神。
科学が進み、心の痛みは薬を飲むだけで無くなる日が来るかもしれない。自分で心の痛みに立ち向かわなくてもすむ時代が来るかもしれない。
けれど、沢山の痛みを自分で乗り越えてきた人は自分の心の隙間につかまらない。
ただ無心に手を動かして、痛みを忘れる。忘却という方法論を人間は砂場でつくっていく。
作って、壊され、痛みに泣き、手を動かしてまた作る。そうして学んでいった人は、隙間に捕まらない術を見出そうとする力がある。
沢山の傷が術を教える。小さな失敗が自殺を思いとどまらせる。諦観のうえにあった現状を受け入れる。
自己肯定感なんて言う前に砂場で遊ばせる。粘土を与える。ただ、ただ無心に手を動かす。その時間が心の傷を裏返し、心を整理させる。
心の痛みは神格化されない。心の痛みは別の方向に変換される。その変換する力の方を神様にする。
八百万の神、人間のつちかってきた歴史、人間の感情も神化する。人間にとって大切なことを神化する。
森羅万象全て神。歴史も心の動きも全て神化する。
ちょうど、痛みは忘れない。心に受けた傷も残る。それでも生きていく主人公の映画が大ヒットしている時にこれを聞くと、余計にこの神を必要としている人が今多いのじゃないかなあ、という気がしますね。
そういえば、あの主人公、最大級の痛みと悲しみを受けた後、ただひたすらに手足動かしてましたね。
まあ、あの状況だと無心に身体動かして修業しないと死ぬのだけれど。
何も考えず、ただただ身体を動かす、手を動かすことが救いになることもありますね。
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