毎月、クラブワールドさんで開かれている「慎古事記の神」で古事記の神々について深いお話を聞かせてくださる二條隆時宗匠の書家としての個展が麻布ギャラリー ラ・リューシュで、令和五年五月十日から二十四日まで開催されました。
個展のタイトルは、「真秀雅風翳 瑞穂の典雅な風」
私は長岡良子さんの「古代幻想ロマンシリーズ」が好きなのですが、その中の一冊に藤原不比等の異母妹、五百重娘が団扇を手にして佇んでいる姿を表紙にしている巻がありまして。
(元正天皇も団扇を手にしてるイメージがあったけど、検索したら表紙絵では手にしてなかったですね)
同じ作者が描いた作品でも時代が下って平安時代になると、表紙絵の姫君が手にしているものが団扇から扇に変わっているので、日本という国は、外から入ってきたものを自分達の好みに合わせて変えていくのが得意なのだなあということが姫君達が手にしているもので分かりますね。
なんとなくですが、扇よりも団扇の方がくだけた場で使うイメージがあるのですが、盆踊りとか夕涼みとか、あれ絶対団扇を手にして佇んでいる方が絵になると思うのですよ。
盆踊りはともかく、夕涼みは扇でもいいだろうと思う方もいらっしゃるでしょうが、夕凪の時間に浴衣姿でくつろぎながら風をあおいでいる姿は団扇の方が似合うと思うのです。
扇だと開いたり閉じたりが出来るので、顔を隠したり見せたり、風をおこす以外の意図にも役立ちそうですが、団扇だと風を扇ぐ為だけに作られたという感じがするからかもしれません。
一つの目的の為だけに作られた道具。考えたら贅沢な話です。
海を渡って作り方を伝えられたばかりの道具。そんな貴重な道具を作ることが出来る職人達を抱えることが出来るのは誰かと言えば、それは当然貴人達に他なりません。
今回の個展を開かれる前に宗匠はおっしゃい
ました。
「贅沢っていうものを見せてやろうと思ってんだ。これは贅沢ですね、っていうものを」
「今、贅沢っていう言葉が『凄い高級なホテルに泊まって食べた』とか『オペラを観に行って盛装で音楽を聴く』とか、そういうことで捉えがちなのだけど。最近の贅沢って、そういうものだけど日本の贅沢っていうのはそういうものじゃないよね」
「贅沢っていうのは材質だけじゃないよね。高価な素材を使えば贅沢かって言えば贅沢じゃあない。
たとえば金の指輪をしているだけで贅沢かっていう、そういう問題よ。
贅沢っていうのは複合的なもの。それも先端である複合的なものが合わさってはじめて贅沢と言えるわけで、贅沢な素材を使うというのは、素材を贅沢に使うというだけの話で贅沢じゃない。
贅を尽くすということが、どんなことなのか今回見てもらおうかなって」
宗匠のお話をお聞きして一つ思い出したことがありまして。
随分昔に読んだ話なので記憶が曖昧なのですが、とある本で演出の大切さを伝える例として利休の逸話が紹介されていまして。
どうして、そういう状況になったのか忘れてしまったのですが、利休が秀吉に招きをかけるのです。
「我が屋敷においでください。美しい花をお見せしましょう」
そう招いた後、利休は家人に命じて庭中の花を摘ませる。
招かれた秀吉は、利休がそう誘いをかけても天下人たる自分が感心するような美しい花などないと思って来ている。
「まずは我が庭をご案内しましょう」
秀吉は、ほほう利休はここで自分に花を見せるつもりだな、と考える。けれど盛りの時期の筈なのに庭のどこにも花はない。
おかしいな、花はないのかと思いつつ共に庭を散策し
「そろそろ喉が渇いたでしょう。茶をさしあげましょう」
という利休の言葉に従って、庭から暗い回廊を抜けて茶室に入る。茶室に飾ってあったのは一輪の朝顔。思わず秀吉は声をあげる。
「なんて美しい花だ」
贅沢に慣れた権力者にたった一輪の朝顔を美しいと言わせる。日本の贅沢というと私が思い出すのはこの話なのですね。
ただ金をかけるから贅沢なのではなく、たた一つの花の美しさを活かす為に、その他の花の美しさを犠牲にするという贅沢さ。
しかしこの逸話を知っていると利休が秀吉に切腹を命じられたのも無理がない気がいたしますね。
「たとえ黄金の茶室を作ったって、貴方には贅沢は分からない」
と言われているようなものですものね。
もし、同じことをされたとしても信長も家康に利休に切腹を命じないと思うの。
あの二人は生まれついての若様だから。自分の予想外の演出をされても面白がるか、素直に感心するか。少なくとも利休に腹を立てない。
でも秀吉は感嘆するのと同時に腹を立てたのじゃないですかねえ。
「貴方には、こういう贅沢をする美意識はないでしょう」
という利休の無言の言葉を勝手に読み取って。
黄金の茶室のように金だけをかけた贅は分かりやすいけど、こういう引き算の贅は演出者の美意識によって決まるか、決まらないかが明確に出てしまいますからね。
成り上がりの権力者にとって自分の持たないものを持っている相手。自分が勝てないものを持っていることを隠さない相手という自分の支配下におけない存在は不愉快でしょうし。
支配下におけないからこそ面白いという面白がり方は己に絶対の自信がないと難しいでしょうし。
(そういえば萩尾望都さんの「ただ一度の大泉の話」が話題になっていた頃、美内すずえさんのエッセイを読んだのですが、同じく70年代の思い出でも萩尾さんへの嫉妬に苦しんだ竹宮さんとは対象的に
「萩尾さんが作品を発表されるのが純粋にファンとして楽しみだった。
本の売り上げは私の方が上だったかもしれない。けれど決して私には描けない世界を描く萩尾さんの作品に魅了された」
と書かれていて。自分の勝負の場がどこか?ということを知っている人は、勝負の場が異なる人の才能を素直に賞賛出来るのかな?と思いました)
今回の個展は「贅沢というものを見せてあげる」という言葉通り、宗匠の作品を日本で唯一人残っている奈良団扇の職人が団扇に仕立て上げるという贅沢なものですが、職人を贅沢に使うという点がもう一つありまして。
宗匠は、今回の個展に使う紙を手に入れる為に「もうこの紙は作りません」
と明言している製作元を口説き倒し、製作元は「今回だけですよ」と念押しのうえ、隠居した職人を引っ張りだしてきて個展の為の紙をすきあげたのです。
「これが終わったら、この紙はもう二度と作りません」
と製作元が断言したのは、売上とか手間とか、そういう商売上の理由だけではありません。
作りたくとも、もう材料がないのです。
日本に、この和紙を作る為の材料がないのです。
必要な材料を作ってくれる生産者がいないので、材料が枯渇したのです。
ですから今回の個展に使われる紙は、本当に職人が作る最後の紙です。
今本当にMaid in Japan の紙を作ろうと思ったら0.01%しか出来ない。
その中でも最高の材料となるものを、とある会社がストックとして保管してあり、それを提供してもらい、既に隠居した最高の職人の工房をもう一度整えて、個展の為の紙を漉いてもらったのです。
そうして紙が出来たなら、今度は金箔とプラチナ箔を用意して、 純金箔それからプラチナの箔を貼って、箔を貼った紙を打って、打った紙に宗匠が葦でを描いて、百人一首を書いて、意味あいを持たせて。そうして出来たものを職人が団扇に仕上げる。
「雅とは革新である」
以前、宗匠はそうおっしゃられました。平安時代の公家さんや皇家は、そうやって職人を育てたのです。工業を、産業を、推進したのです。
貴人達は、職人達が精を尽くして作ったものを
「ほう、なかなか良いものをつくられた。(でも私の作ったものには敵いませんなあ)」
と、競いあいました。今は職人が素晴らしいものを作っても競い合う相手がいない。
作家、山田風太郎は傑作揃いと評価の高い明治ものを書かなくなった理由をこう答えました。
「話に遊びを仕込んでも分かる人が少なくなっちゃったからねえ。遊びを仕込んでも読んだ人が分からないと詰まらないよ」
主人公が、かつての同輩だった旧幕臣を訪ねた時、同輩が連れていた8歳の金之助少年が別の同輩が連れていた2歳の幼女に訊ねる。
「おまえ、名前なんて言うんだ?」
「ひぐちなちゅ」
これで笑える人が少なくなった。面白がれる人が少なくなった。楽しむ人が少なくなった遊びは消えてゆく。
雅とは古いものに新しいものが加わって新たなものが生み出されてゆくこと。守破離。守があるから破と離がある。守だけでは澱む。根のない破は、ただの出鱈目。
面白いものは知識がなくとも面白い。人を惹きつけるものは、小学生が見ても、じじばばが見ても惹きつけられる。なんて素敵なのだろう!なんて面白いのだろう!
何も分からなくても、何も知識が無くても
「わあ、これ贅沢だなあ。豊かだなあ」
そう思わせるものが贅沢。知識がないまま惹きつけられて
「このことについてもっと知りたい」
という想いに駆り立てられて、知れば知るほど面白さが増してゆくのが贅沢。
宗匠は、今回贅沢を形に表された。
人が人を拝む。大事な人が亡くなった時に、お位牌になったり仏壇に入ったりすると人はなかなか拝めない。
川を渡ってしまった。界が異なる存在になってしまった。
それを受け入れることには、なかなかな時間がかかる。
けれど、それを見たら、そこにいると思える。それ見た時に「元気?」っていう風に拝めるような対象があったらいいかなという想いで作られた歌。
その歌を今回宗匠は、一枚一枚純銀の団扇にした。
大和の時という四季折々の日本の美しさを謳う歌。
宗匠は、その歌を藤原行成が千年前に編み出した散らしに敷きに書いて、団扇の中に入れられた。金の団扇を彩る五節句の絵とそれぞれの季節の植物。
合紙の中に坐する歌は、純金の紙を切り取られた窓からしか見えない。
先回の個展で描かれた豊葦原瑞穂の国。秋の個展では一枚の大きな紙の中に表した作品を、今回宗匠は団扇という人の手に持てる形で表した。
豊葦原瑞穂の国は、神様のものだから人の手には取れない。
真秀雅風翳、同じ紙から作られた今回の作品は、団扇なので持つことが出来る。
人が見つめる作品から、人が手に取れる作品へ。神様のものから、人のものへ。
神世、常世、来世。
人の手に取れる豊葦原瑞穂の国。自分の手に取って、この国の化身を見つめた時、観た方々はどんな思いを抱くのでしょうね。
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