私達が欲しいているのは「えん」でしょうか。「やわらぎ」でしょうか。
誘やナギ、誘やナミ
イザナギ、イザナミという対になった神について語るにあたり、宗匠はこう仰られました。
「一月では足りない」
神代七代最後の神々であり、日本という国を生んだこの二神を語るには一月ではとても足りないと。一月めで、イザナギ、イザナミ。二月めでイザナギ。三月めでイザナミ。少なくとも語るのに三月はいると。
何故なら、この二神は、ともに手を取り合って日本という国を生み出した神々であり、やがて対立し、相争い、袂を分かった神々であるから。
この国を生んだ二柱の神。この二柱の神が象徴する二つの考え方は、それぞれこの国に棲む人間に影響を与えた。
神代七代最後の神々。今まで語られてきた六代の神々が象徴するものを全て凝縮し表した神。神代の神々の精華。それがイザナギ。
政治も経済も文化も、この国を形づくる全てのものを一点に集約し、象徴する神。
日本という国の代表者としての神。代表者であるが故に国産み二神の一柱とされる神。全ては、この神々から始まった。その対となる片割れ。それがイザナギ。日本人に正解を与えた神。
かつて私達は精神学の中で頂点を見た。これが正しいという正解を得た。比率で言えば黄金率。誰が見ても美しいと感じるもの。これがイザナギ。人がこういう世の中を望んだ結果現れたもの。
イザナギが現れたことで哲学が一回完結した。日本人は正解を出した。精神学は限りなく数学に近い。数学とは必ず答えのある学問。人は「これしかない」という答えを求めて問いを繰り返す。
正解が出るというきとが哲学。それ以上割れない。そして存在する。だから1、0ではない。
日本人は、かつてイザナギという答を得た。イザナギという1を、1という概念を、1という定理を、イザナギという誰もが正解と認めるものを得た。
その神がどういう神であるか。何を象徴するものであるかは、その名前を見れば分かる。
イザナギ、イザナミ。誘や、ナギ。誘や、ナミ。
イザとは誘うという意味であり、ナギとは平を高低差のないものを表し、ナミとは凸凹を、高低差のあるものを表す。
常に人間の心は高低の間を揺れ動く。波をつけられる
不安や恐れで心が大きく揺れ動く。心が大きく揺れ動いた人間が集まると、そこに大きな力が生まれる。大きく波が揺れ動く。この大きな波がいらない世界が精華。
精華とは無量大数ではない。精華とはだし汁と同じ。様々なものを集め、濾し絞った一点。お茶で言うなら玉露。一番濃いもの。一番濃い数字が1。
平、直線という考え方。これがイザナギ。日本人が得た1。
インド人は、0という定義を作った。0という概念がないと宇宙を理解することが出来ないから。無限という現実にないものを理解するには0という現実にはないものが必要だから。0という想像の産物を生み出すことで、宇宙の無限を理解しようとした。
日本人は1といい定理を得た。1という正解を得た。1という現実の世界に存在するものを得た。日本には有限なものしかなかった。0がなかった。空もなく虚もなかった。
だから、壊されても無にすることはしなかった。不安で死ななかった。たとえ全てが壊されても八百万の神がおわします。それが1。
動物は0を持たない。0は現実の世界には存在しないものだから。0という考えを導き出すのは1が必要で、動物は1は理解しても0を理解することは出来ない。
1が無くなったことを理解することは出来ても、0という「何にもないがある」ということを理解することが出来ない。
精神学も人間にしかない。人間社会全てが精神学で成り立っている。社会現象にまでなった大ヒット作の中で主人公はこう言った。
「人は心が原動力だから」
0は人間が生み出したもの。0という概念があるのは人間だけ。だから0を守っているのは人間の心。だから0が無くても生きていける。ないと困るのは1の方だから正解。
それまで我々は徹底的にやられた。東の空から現れる光と明るさ、暖かさ、安全をもたらすものを手に入れようと故郷を後に旅を続けたが、故郷から遠く離れた東の果ての地で太陽は我が手に入らないことが分かった。
ならば、せめてと太陽だけを見て、太陽だけを祀る祭祀者をたてることで解決しようとした。
けれど祭祀者が日の動きを追い、天候の動きを読み、太陽を祀ることで安全を得られる筈なのに、台風はやって来て、田も畑も建物も、それまで築きあげてきた全てのものが一瞬の風で無くなる。
我々は、あらゆる葛藤をしながら一つの王を見出していく。王の立て方も学んだ。王を支える組織の作り方も学んだ。では、それらを得た後、我々は何を欲したか?
我々は精神的な正解を求めた。
たいらけし やすらけし みことし
皆がこれを正解と認めた。人間の精神世界において絶対なものは平安。それしかない。これが正解。日本の精神学は平安を求める。平安とはイザナギ。これが正解。だから失敗する。
割ってもかけても1は1。
まっ平というところがないと感情の波は起きない。なんの感情の起伏もなければ、それを1と考えた。
波がないから、波をたてた時に感情が起こる。それはある一点、1があるから。
平安があって、息をする。食べる。我々は、それを1と考える。食べるところがあって、寝るところがあって、平安がある。それは1。正解
正解を持っていたら指針ができる。1を基準にして悲しいとか嬉しいとかを判断することができる。
たいら、やすら、なぎ、という考え方
以降我々は色々なものを受け入れられるようになった。1がないと他を受け入れられない。0しかないと他を加えると1になってしまう。
1があると色々なものが加わっても土台がある。土台があるから色々他を受け入れられる。我々は、かなり沢山の言語や文字を受け入れた。
これが出来たのは受け入れられる土壌があったから。受け入れられる土壌を1と考える。
イザとは誘いこすということ。新しい情報を取り入れることによってどんどん更新する。新しい情報を受け入れられるのは土台となる平な面があったから。
王に方向があったら、この国は新しいものを受け入れられなかった。方向があったら、新しいものを受け入れたら方向が変わってしまう。
方向ではなく平があったから受け入れられた。呉音のニッポンという言葉を受け入れる土壌があった。それが1。
数字でいう0は存在してはいけない。なんにもないは、存在してはいけない。0を起点にする人は0を存在すると考える。空も虚も存在すると考える。
1がある。たいらがある。平安がある。それをこの国の根幹と定めた。それがイザナギ。
情報をいざない、そして波でない。1には波がない。1は分けられない。0は存在しない。これをイザナギとする。
イザナギを出した状態で我々は精神学で正解を得た。精神学においては、神の中その時代のトピックである、事象。
いざなった平。色んなものを誘う平、誘うけどたいら。
以和為尊、 聖徳太子は十七条の憲法の最初の一条にこう書いた。当時の日本にはかなはなかった。だから漢字でこう書いた。
この条文で最も有名な読み方は、こう読みくだす。「和を以って貴しとなし」 しかし、この条文は日本語を外から来た文字で表したもの。だから、有名な読み方以外にこう読める。
「やわらぎをもってたっとうしとなす」「やわらぎをもってみこととなす」
「とうとし」ではなく「たっとうし」。「みこと」とは「たいら」という意味。ベースという意味。だからそれを命と呼ばせた。ち、すなわちLOVE。
いのち、やまたのおろち。ちがつくものは、またブラッド(血)が入っていることも示す。ベースとなるもの。これが入っている間動くもの。そのもととなるものがいのち。
いろはの「い」もちがつくからいのち。50音の最初の一文字。一番重要な「い」にか「ち」が入るからいのち。
「ち」がつくのは力。
いのちという考え方は、平らという意味。意味とは、そなわち定理。定義にしたら、仮にそうしましょうという意味になる。定理とは、そうであるということ。
「和をもって貴し」をなすのは、丸。和は、まん丸。外からものを入れない。中から外に出さない。
「やわらぎをもってたっとうしとなす」でこぼこであることが平ら。でこぼこであるからこそ、平らになる。でこぼこが強い方が平らになる。
平らとは、そなわち1。我々は1を持った。精神学で1という正解を持ったことで我々はどんどん生み出せるようになった。
1は平ら、凪。1に何かを足さないと生み出せない。
イザナギ、誘う平ら
イザナミ、誘う波
日本は、精神学において1回正解を出した。日本国民が全員で正解を出した。それを正解としないと我が国では立ちゆかなかった。
心に寄り添える考え方が一つ出た。以降、どんどんその子孫達が増えていく。いつまでも続く平ら。
平穏を出したのに、それを正解としてのに、出した人達はそれを正しいとしていない。
イザナギは産業をもたらした。産業をもたらすというのは格差が出来る。イザナギのところに乗った人は、何故集ったのか。
「たいらけく、やすらけく、いのち」
このキーワードを聞かせられ、惹かれ集まった。産業が興り、格差が生まれ、そして倒れた。正しい正解をうっと続けていくことは我々愚かな人間には出来ない。
人間は、ずっと同じことを平らかにやっていられない。人間は、平らかなところでは眠れない。ものが食えない。
それを理想とするところ、それを目指すところ、情報がそんなにない時代に正解を出すということが、平らという考えが我々を支えたというのもまた事実。
世界中のあらゆるものが入ってくるようになった。考えが地球という土台から宇宙という土台に考えが変わった。宇宙が沢山あるということを理解できるのは難しい。
一が、命で、平ら。古事記は、この後、みことの話となる。
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