第15回 イザナギ イザナミ

「歴史を学ぶ意味は何でしょう?」

今回の古事記講座は、宗匠が出されたこの宿題を答えるところから始まりました。

「私達が歴史を学ぶ意味はなんでしょう?」

 問いかけられた人達は、それぞれに自分が考える「歴史を学ぶ意味」を語りました。

 この問いを与えられた時、私はとても困りました。「SFは絵だねえ」という有名な言葉があります。

私は、この言葉を萩尾望都さんの「銀の三角」の文庫解説で知ったので、なるほどSFは絵だよね、と素直に納得したのですが(どうでもいいことですが「銀の三角」って面白いのだけど、どう面白いかを人に伝えるのが難しいですよね。宗匠が語られた話を整理する為にこうして書き出す時「銀の三角」の解説を書いた人は苦労しただろうなあと思いますわ)、それと対句のように覚えている言葉があります。

「歴史は、物語だよねえ」」

これ出典はどこか分かりません。鬼滅の刃の最終回で「一人一人の人生が物語」という言葉があったから、どこかで同じ出典を見て、同じように強く印象に残っていたのかもしれませんが何にそう記されていたのか覚えていないのです。

 主人公が異なるそれぞれの人のそれぞれの物語が歴史を形作っていく。あるものは歴史に名を残し、あるものはそんなことも思いもしないまま、どちらも歴史を織りなす糸の一編として歴史というタペストリーを織りあげていく。

 私は、そういう個々の物語の方に興味があったので歴史を学ぶ意味を深く考えたことはなかったのです。

 ですから私が宗匠の問いに

「今を知る為。私達は、どこから来て、どこへ行くのか。それを知る為には過去に何があったかをを知らないと分からないから」

 と答えたのは戦中派世代の作家を好んで読むせいかもしれません。司馬遼太郎の作家としての原点が1945年8月15日というのは有名な話ですが、司馬遼太郎に限らず作家には原点が8月15日という人は珍しくありません。

 むしろ成人していた司馬遼太郎よりも当時十代以下だった人々の方が、その日を境に大きく歴史が変わったことが、その後の人生に与えた影響は大きい。

 今まで真実だと教えられてきたことが、ある日を境に嘘になる。善だと賛美されてきたことが、その日を境に悪になる。綺麗は汚い。汚いは綺麗。

 私の中学の時の先生に戦中派世代の方がおりまして(今となると直接あの世代に教えを受けたのは貴重な経験でしたね)

「夏休み前は『鬼畜米英』、夏休み明けたら『民主主義万歳』だ。あれで先生なんて二度と信じるかと思った。いいか、おまえら先生の言うことだからって素直に信じるな。よく聞いて、よく見て、考えて、それでも信じてもいいと思ったら信じろ」

 当時小学生だった人間が繰り返し教え子にこう伝えるほど、あの世代の「裏切られた」という怒りは根深いものはあるのでしょうね。

 世の中の善悪の理は、ある日突然ひっくり変える。それまで正しいとされてきたことが、ある日突然嘘になる。

 いったい何故こういうことが起こった?どうしてこういうことになったんだ?その理由を求めて過去を遡る人が出ても何の不思議もございません。

 この価値観の大激変を体験した世代では少ないように思いますが、歴史を学ぶ意味を次のように語る方もおられます。

「私達が悪しき歴史を学ぶ意味は悪い歴史を繰り返さない為」

 悪い歴史を繰り返さない為に歴史を学ぶ。なかなか上から目線からの言葉だと宗匠はおっしゃいます。

「『悪い歴史を繰り返さない為に歴史を学ぶ』そうやって教えられてきた結果が今のていたらくですよ」

 私達は何故歴史を学ぶのか?その問いについて宗匠はこうおっしゃいました。

「私達が歴史を学ぶのは『我々が必ず、間違いを起こす』ということを認識する為に学ぶ」

「未来は予測できない。どう動くのか分からない。コロナが始まる前、私達は今のような状況になると予想できたのか?誰も予想できない。未来はどう動くか分からない。ただ人は間違えるという予測だけは完全に当たる。正しい考えを示せない。何故間違えるのか?何を間違えるのか?正しいことが分かっていて何故間違えるのか?そもそも正しいとは何か?」

 人間の経験則に沿って間違えた。我々の歴史観から見ての間違い。人間の倫理観に沿った間違い。

 これは生物としての間違いは別。生物にとっての正しいとは生き延びること。自分の遺伝子をより多く残すこと。これが生物にとっての基本戦略。

 一見利他の象徴のように見える働きバチは、姉妹である女王蜂の為に働くことでより多く自分の遺伝子を残す戦略を取る。

 ライオンの雄は自分の子供を増やす為に、自分が乗っ取った群れにいる子供達を殺し、ライオンの雌は自分が産んだ子供達が殺されることがないように自分の縄張りにやって来た全てのグループの雄と交尾し、誰が子供の父親か分からないようにする。

 人間の倫理観にそっては間違いの行為でも、生物の生存戦略としては間違っていない。

 我々は必ず間違う。我々の倫理観から外れることを必ず起こす。これは歴史をよく知っている人が少ないから。

 それが倫理観に照らし合わせて正しいか正しくないかを見ないから。そういう見方で歴史を学ばないから。

 日本の歴史や世界の歴史を、それぞれの倫理観と照らし合わせて見ていない。だから必ず間違う。

倫理観と照らし合わせて間違っているか否かを判断するのが歴史。歴史はリスペクトする為にある。良いか悪いかを判断する為の基準。よって歴史には賞味期限がある。

 イザナギとイザナミはそのことを表す神。歴史には賞味期限があり、時代には終わりがあることを。前の時代の倫理は次の時代には通用しないことを。だから必ず私達は間違うことを。

 新しい時代が来た時、それまでの歴史は人間社会にとって不必要となり、記録としてアーカイブになることを私達に教える神。それがイザナギとイザナミ。

 アマテラスは太陽神、ツクヨミは月神。イザナギ、イザナミから後の神々はもののように性質がある。火の神、水の神、山の神 

 イザナギ、イザナミ以前の神々は性質がない。イザナギ、イザナミは何の神かは言えない。この代までの神々はカッチリとして性格がない。我々の心や自然に起因するものばかり。脅威としてきたもの。王権に関するもの。自然崇拝とするもの。

 神の時代の最後の神。神の時代の中で最も長く平和な時代を築いだ神。それがイザナギとイザナミ。

長く続いた二神の時代は、たった一つの大事件で脆くも終わった。カグツチが二神の夫婦別れを招いた。火を使うという技術のより先進的な方法が入ってきた時、イザナギという前時代の王はいらなくなった。

イザナギという不要になった王を捨て、イザナミは黄泉の国へ、別の国へと住居を移す。イザナミを諦めきれないイザナギは桃の実と桃の杖を持ち、葡萄の蔓で髪を結い、黄泉の国へと迎えに行く。

「既にこの国のものを食べたので貴方と一緒に戻れない」

 そう断るイザナミにイザナギは共に戻ろうとかき口説く。根負けしたイザナミが

「ではどうすればいいか話し合ってくるから、それまでここで待っていて欲しい」

 そう応えたのに、待ちきれなかったイザナギは開けるなと言われた戸を開け、進み、そこで黄泉醜女がイザナミに取りついている姿を見た。世にもおぞましいものを見た。想像を絶するものを見た。

 その恐ろしさから逃れる為にイザナギは後ろも見ずに逃げだした。

 黄泉津比良坂という地名が残っている場所があります。そう、島根。出雲です。イザナミはイザナギと別れた後、出雲に住居を移した。

共に国をつくった同盟者を、イザナミを諦めきれないイザナギは、再び共に手を組もうと出雲を訪れ交渉した。

交渉は決裂し、イザナギは負けた。黄泉のイザナミは雷を身にまとっていた。既にカグツチを手に入れていたイザナミ、火を使う技術を進化させていたイザナミに徹底的に負けた。

剣も鉾も進化させ、イザナギ軍にとうてい敵わない軍備をしていたイザナミに徹底的に負けたイザナギは命からがら出雲を逃げ出し、逃げた先で体制を立て直すこととなった。

よく忘れる人がいるが三貴子は、イザナギイザナミの間の子でない。アマテラスもツクヨミもスサノオも黄泉から逃れたイザナギが黄泉の穢れを払う時に生まれた子供。

イザナギとイザナミが再び相まみえるには、イザナギの子であるアマテラスの孫が出雲の王である大国主と対峙するまでの時間が必要だった。

それぐらいイザナギとイザナミの間の技術力に差ができていた。それぐらい技術力に差があるほどの産業力に差があった。それほどの差が生まれるほどの産業革命をイザナミは起こしていた。

イザナミが起こした革命により、人というものを大切にする社会に変わった。人間の時代、おのおの自分で考える時代となった。

 我々が人間として責任を取る時代となった。それまでは分担はさせても、そこに責任はなかった。イザナミは責任を取るという社会を作った。

 世の中はイザナミの時代、人の時代となった。人が責任を負う時代。すなわち人が責任を負える時代。これは、その者の役割責任と責任分担ができるまでに産業革命が起こり、それぞれの役割と責任が出来た。

人間が人間として責任を負うようになった。イザナミとイザナギは神々が役割を持たなかった時代の最後の神。ひと時の長い平和を築いた神。

今は、イザナミとイザナギが夫婦別れをする前段階。技術の変化が長い平和を破り、ニ神の夫婦別れを招いた。

これから先の未来は人が起こしても、人が責任を負えないようなツールが出てくる。

電脳の社会、お母さんの子守唄の代わりにタブレットが見守る社会。喋ることも出来ない子供がタブレットの扱い方を理解している社会。友達よりも先にタブレットが友達となる社会。

我々はツールがスマホに入っていると解っているから、スマホを機械だと思っている。イザナギとイザナミが夫婦別れを起こす前の最後の世代。

既にアプリに感情移入する世代が出てきている。彼らにとってはバーチャルな世界が現実。二次元世界の住人に感情を移入する人が、三次元の住人よりも二次元の住人の方に愛情や親愛を感じる人が出始めている。

現実世界のイジメに苦しめられた中学生が、友人として救いを求めたのは会ったこともないバーチャル世界の友人だった。教師も含め現実世界の人間は助けになってはくれなかった。

オンラインゲームという仮想現実の中の友人達だけがイジメに悩む中学生を助けなければと心配した。

イザナギとイザナミは夫婦別れをした。それから数百年の間、イザナミの時代が続き、それから新しい神の時代が来た。イザナギが生み出した神の時代。その神に連なる神々の時代が。

この時代をもって我々は神にあがる。ようが無くなった段階で、神にあがる。新しい神として名を貰い、神様にあげられる。

我々の刻んできた歴史は用済みになる。用済みになった時点で神になる。

映像とデーターで世界を認識した世界は生まれた時から脳を破壊されている。世界は奴隷を求めている。奴隷を求めている勝ち組は誰?

嘘の中で嘘をつきあって責任を取れない時代。奴隷と認識出来ない時代。電脳に頼らざるをえない時代がやって来る。

これから先、どう繋がっていくのか?閉塞感の時代と言われて久しい。だが、時代は閉塞感があればあるほど爆発する。

我々自身が閉塞感に繋がるように仕向けている。自分が閉塞感という言葉によって溜めている。閉塞感を自分で醸し出している。自分に閉塞感を与えている。

歴史が変わる時、爆発する為の起爆剤となるのは閉塞感。イザナギがイザナミと別れ、敗れ、逃げ出し、長い間敗者として閉塞感に閉じ込められ、その閉塞感によって爆発し、その次のステップをちゃんと踏んで隠れ宮に入る。

閉塞感の後の爆発。今こそ閉塞感を楽しむ。溜まりに溜まった閉塞感はあらぬ方向に爆発する。どういう方向に爆発するかは人には分からない。

我々が今までの歴史を使えるのは最後。今までの常識が非常識になるのは止められない。電脳の世界で世界が繋がった。

AIは人間を学ぶ。過去の歴史から大量のアーカイブから人間というものを学び、人間の求めるままに人を管理し奉仕する。

技術の進歩が人の仕事を奪うことは過去何度も繰り返された。それとは比べものにならない変化がこれから起こる。

この状況はイザナギが負けて、三貴子を作った状態に似ている。閉塞感をどうやってイザナギは払ったのか?それが今の閉塞感を払うヒントとなる。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次