雨に濡れる紫陽花が綺麗な季節です。私は古事記講座とは別に身体技法の講座にも通っているのですが、こういう季節になりますとそちらの師匠からよく聞かされた言葉がございます。
「そろそろ禁糖が始まるから甘いものは食べないようにね」
夏に向かい、どんどん湿度が高くなりしかも雨が続くので湿気も多くなって参ります。湿度だけなら日本よりも高いアフリカや中東の人間が「うちの国にはこんなサウナみたいな暑さはない」と湿気の多い暑さに音をあげる季節となります。
ちょっと油断するとすぐ食べ物にカビが生える季節。ものが腐敗しやすい季節なります。
「こういう時は身体の外側だけでなく内側も腐りやすいから禁糖明けまで甘いものは我慢するのよ」
身体の内側も腐りやすい。つまり膿みやすい。なので身体に負担がかからないように、この時期は甘いものを取るのは慎みなさい、と言うことなのですが、今月の古事記講座は嘉祥の日、つまりお菓子の日の話から始まりましてね。
え、禁糖?何それ?せっかくのお菓子の日なのだから有り難くいただくに決まっているじゃないですか!(まあ、うちの師匠も「禁糖にはお酒も含まれるからね〜」と言っておきながら、終わった後皆でご飯を食べに行く時にビールを飲んじゃったりするような人なんですが)
この嘉祥の日、実は出来たのはそう古いことではないそうで。病が流行った為、疫病退散を祈願して神々に菓子を供え厄除けと健康招福を祈る儀式は平安時代から行われていたそうなのですが、そんな堂上人がなさるようなことを庶民ができるわけないじゃないですか。
庶民どころか諸大名だって将軍家が下される嘉祥の儀のお下がりを有り難くいただくだけの立場ですよ。
「当家は将軍家から嘉祥の菓子を与えられる家である」
もう、それだけで選ばれた特別な家。
「これが我が家の健康招福を祈願して上様から下された菓子である。皆、有り難くいただくように」
これはテンションがあがりますよね。鬱陶しい天気が続くこの時期に心浮き立つことがあるというのはなかなか道理にあっているのかもしれません。(江戸期までは旧暦に過ごしているのだから梅雨が明けて夏が来た頃が嘉祥の日じゃないの?というツッコミはこの際、横に置いておく)
ここで暦を旧暦にして考えますと嘉祥の日というのは大暑の日なのですね。六月十六日が和菓子の日なので世間一般では六月十六日が嘉祥の日なんですが、これ将軍家が大名に菓子を与えたのが十六日なので、武家の嘉祥の日なんですね。
皇室や公家はそれより三日早い十三日に嘉祥の儀を行うので、この日が嘉祥の日となるわけです。十三日に十三種類の菓子を神に捧げて疫病退散を祈願し、健康招福を願う。
梅雨が明け、本格的な夏が始まった時期に健康の為に祈り、夏の暑さがピークになった頃、半年の厄を払う為に夏越の大祓をする。
この夏越の大祓の時、神社に茅の輪が据えられますね。茅、真菰、蒲の穂を束ねて作った大きな輪を神社の鳥居や拝殿に据えて、これをくぐる。
茅も真菰も神様の為に生まれてきた植物なのですね。仏教でもお盆の時にござや真菰を敷いて精霊棚を作りますね。つまり人ならざぬものをお迎えする時に下に敷くものなんですね。真菰を敷いて神様が通られるところを作る。菰の上にあるものは清浄なもの。菰が悪いものを祓ってくれるので、その上は清らかな場所となる。
真菰で作った茅の輪を通ることで人間も身を清められる。
真菰、葦、茅、蒲の穂。水生の植物は水を清めてくれる植物でもあります。今でも重金属吸着処理能力の高さを期待して葦を植えることはありますね。
菰や葦の上にあるものは清められたもの。清浄なもの。このことを考えると人々の間に誤解があることに気づきます。
イザナギとイザナミの最初の子産みは失敗だったと伝えられています。二神の間に最初に生まれた子供はヒルコ。不具であるがゆえに川に流されたと伝えられる神。
けれどヒルコが乗せられたのは葦の船。葦で編んだ船は、その軽さゆえに決して水に沈むことはない。そして葦は清浄なもの、大事なものを上にのせるもの。
遠く離れた西の地で同じように赤子の時に葦の船に流され、エジプト王女に拾われて育てられたものがいる。
モーゼ、長じてはユダヤ人を率いてエジプトを脱出し、約束の地カナンを目指したもの。
葦の船に乗せられたものは清浄なもの。再び訪れるもの。一度去り、後にまたやって来るもの。
去っていったいヒルコのことは別の語りとなります。ヒルコが去った後、同じ失敗を繰り返さないよう二神はやり方を変えてやり直す。
この国は神々でさえも失敗をする。前回の古事記講座の時、宗匠は問われました。
「私達が歴史を学ぶ意味はなんでしょう?」
そして私達が、それぞれ考え答を聞いた後、こういう風に返されました。
「歴史とは『人は間違える』ということを知る為に勉強すること」
人は間違える。日本の歴史や世界の歴史をそれぞれの倫理観と照らし合わせて見るようなことはしないから。
自分達の持っている倫理観と照らし合わせて間違っているか否かを判断するのが歴史。良いか、悪いかを判断する為の基準。
過去の事象を元に、残され続けてきた膨大なアーカイブスを元に人は己の判断を決め、より良いと信じた選択を選び続けてきた。
その時代に終わりが来た。私達の時代がアーカイブスの中に加わる時代が、過去の記録として、事象の一つとして記憶される時代が来た。
膨大な記録、膨大な世界中のアーカイブス。人間の記憶には限りがある。自分の国のことでさえ、全て憶えきることは難しい。
過去起こった全ての事象を覚えていられる人間などいない。けれどAIには出来る。
全て国の歴史を覚えていくことも。過去の記録を保存している各国のアーカイブスに即座にアクセスし、該当する事例がないかを照会することも。
技術の進歩は続く。記録されている事象を元にどれが正しいかを判断することをAIに任せることも可能になる。
これから先、時代が変わる。歴史観点も変わる。AIは人がプログラミングした通りに動く。悪い歴史を繰り返さないように、人が過ちを犯さないように、愚かなことをしないようにという判断をコンピューターにさせるように人が求めればAIはその求めに応じて答える。
既にそれに近いことがウィグルで起こっている。街中に張り巡らされた監視カメラ。中国政府が認めた「正しいこと」
それ以外のことはウィグルに棲む人達は出来ない。ウィグル人の信仰の場であるモスクをショッピングセンターにされても。
そのことについて抗議や抵抗をしたくてもウィグル人には出来ない。
それは「正しくない」ことだから。
不要になった建物を別の使用用途の為に再利用することは経済発展の為には「正しいこと」だから。
街中の人々がそこに集まり、その場で祈りを捧げる。宗教を否定した国では、そのような行為は無駄な行為。
無駄な行為の為に人々が集うのは経済的合理性がない。従って「正しくない」
「正しくない」ことを行うのは望ましいことではない。国が望まない「正しくない」ことを行う場など必要ない。
そうしてモスクがなくなりショッピングセンターができる。人々が集まり、会話を交わしたコミュニティの場が無くなる。
これが「正しい」こと。中国政府が望んだ「正しい」と決めたこと。これが監視社会にとっての正しいこと。
では自由主義社会の中で「正しいこと」とは何でしょう?これが「正しい」と誰もが認めることは何でしょう?
いつだって正義と対立するのは悪ではなく別の正義。正しいことなんて一つもない。
「生きる」「生存する」「生き残る」という意味での正しいことは、目の前の貴方を殺して喰べる。これは生存競争としてじゃ正しいが人倫としては間違っている。
けれど、この人倫としては間違っている行為を犯しても生き延びた人の記録は我が国を含め世界中そこかしこに転がっている。人は飢えれば友も殺す、子も殺す。
一つの「正しい」には対立する別の「正しい」があり、それぞれの「正しい」を信じる人は自分とは真逆の「正しい」を掲げる人を「おまえは間違っている」と非難する。この世には正しいことなど何もない。たった一つを除いては。
誰もが認める「正しい」ことは、この世にたった一つだけ。誰もが嘘だと否定できないこと。それは正しいと認めざるをえないこと。
「人は必ず死ぬ」正しい答えは、一つだけ。生まれてきたものは、いつか必ず死ぬ。歴史を勉強する中で、誰もが認める正しい答えは、この一つだけ。
人は、必ず死ぬ。では、どうするか?殺められるか?死と向き合うか?どれだけ頑張って死ぬことを見つけるように生きていくのか?
「メメント・モリ」遠い西の地で古代ローマ時代から使われた言葉。「死を想え」生きることをを楽しむ為の言葉として使われた言葉。全人口の三分の一が命を落とした疫病の恐怖から逃れる為に使われた言葉。
私達は生まれた時から身体の中に死を内包している。子どもは死に気づかない。そんなものが常に自分の傍にあることに気づかない。だから子供は全力で死にに行く。
大人は死に気づく。いつか、どこかで待っているものがいることに気づく。だから大人は終の迎え方を考えなければいけない。
それが分かっていても死の寸前まで私達は生き方を間違える。
死の間際にどういう死に方を選ぶのか。どういう死を迎えるのか。自分しか決められない。
終わりを、死を考えて欲しい。
コロナワクチンについて接種推進派と接種反対派との間で揉めておりますね。同じことは過去何度も起こっておりますが、近いところで耳目を集めたのは、子宮頸がんワクチンについてでしょうか。
接種推進派も接種反対派もこの時のことをよく口に出しますね。
推進派は、副反応の大きさをメディアが煽るように報道したことで国が萎縮し積極的推奨をやめたことで接種率が低下し、1%未満だけ接種率が落ちたことの結果を他国の接種率、癌発生率、死亡率を比較し、同じ轍を踏むなと主張し、反対派はワクチンの副反応によって、それまでの日常生活が送れなくなった少女達のことを忘れるなと主張する。
(このあたりの経緯については斉藤貴男の「子宮頚がんワクチン事件」が分かりやすいかな。まだ何が起こっているのか五里霧中の時に「いったい何が起こっているのか知りたい」という目的のもと、反対派、賛成派双方に取材しているのでイデオロギーや利害に偏っていなくてバランスがいいです)
どんな医療にも100%の安全は保障されないし、だからこそ医療者は100%の安全を目指して試行錯誤を繰り返す。
どれほど動物実験を繰り返しても、人への効果を期待して使用されるものである以上、ワクチンの効果は人で試さないと分からない。
それは治験者が足りないことで国産ワクチンの開発が遅れていることからも分かる。他国に比べて極端に感染者が少ない日本では、ワクチンの効能、安全を確かめる為の治験者が足りない。
ワクチンは、人体実験をしないと分からない。第三国の人間にそれを任せるのか。子供が打つ前に大人が人体実験をするべきか。宗匠はおっしゃいます。
「子供が小さいとか、立場によって色々考え方があるでしょうけど、呼ばれたら僕は行きますよ。どういう死を迎えるかは自分で決める。人体実験に行くのも悪くない」
もし接種したことで何か起こったとしても、それは次の人の為の記録として残る。上の世代から始めたら、下の世代はより危険が少ない方法を選ぶことができる。
子供か次の世代の為に大人が何をするべきか。
誰もが認める正しいというのは死ぬこと。人は必ず死ぬ。これだけが正しい。
人は間違える。神様でさえ、間違える。古事記の中では沢山神様の間違いが記されている。自分の子を殺めたり、喧嘩したり、夫婦別れをしたり。日本の神様は間違える。そして間違えたことを隠さない。
では神様が間違った時にどうするのか。その為に行うのが禊、祓。カグツチを産んだイザナミが世を去った後、諦めきれないイザナギは彼女に会いに行った。常世の国の人が黄泉の国に行き、そこで見てはいけないものを見た。
私は、今流行りのスピリチュアル系には、まるで疎いもので知らなかったのですが波動高い系というのがあるそうなのですね。(意味が分からなくて検索したら解説記事が出てきました。辛酸なめ子さん、ありがとう。凄く分かりやすかったです)
宗匠はおっしゃいました。
「古典、古語に波動という言葉はありません。あれは科学用語です」
以前、エンジニアの方に「音というのは、波動で伝わるんですよ」とういうことが分かる実験を見せていただいたことがありまして。
プラスチック板とオルゴールを使ったとても面白い実験で、こういうのを見せられたら子供は理科や科学が好きになるよね、と思ったのですが、ああいう風に波動というのは逸らせたり、反射させたりして操ることができるものということを見せてもらったことがあると(それが出来ないと科学実験にならないし)
「波動じゃなくて霊性。波くらいのことで、そこの霊性を語れない」
と、宗匠がきっぱり区別されるのがとてもよく理解できるのです。薔薇は薔薇と呼ばれなくても香るけど、霊性を波動と言い換えるのはさすがに無理がありますものね。
波は上へ下へと動くもの。よせてはかえすの繰り返し。
北原白秋は「桐の花」の中で
「夜が更け、空が霽れ、蒼褪めはてた経験の貴さと冷たい霊性のなやみを染々と身に嗅ぎわけて、哀傷のけものは今深い闇のそこひからびやうびやうと声を秘そめて鳴き続ける。」
「そこには不意の輝きに驚かされた柿の木が真青に顫へ上つた、と思ふと、濡れた葉とまた真青な果の簇むらがりがキラキラと私の眼を射返した。
何たる神秘、落ちついた真青な輝き……暗い深夜の秘密に密醸された新鮮な酸素の噎びが雨後の点滴てんてきと相連れて、冷たい霊性の火花も今真青に慄わなゝき出した。」
と、記しました。あると語らなくても分かるもの。目で、耳で、肌で、そこにあると分かるもの。
霊性は球体。二元論では語れない。波くらいのことで、その霊性は語れない。
霊性を理解するのは、むしろ恒星の誕生と終焉をイメージする方が理解しやすいかもしれない。霊性が徹底的に落ちていく。
イザナギは黄泉の国を訪れた。マイナスのマイナスの方向に行った。色んな穢れが寄ってきた。夏越の祓、年越しの大祓、祓の時には穢れを祓う。
今は「穢れ」と書き表す。でもそれ以前は「穢れ」でなく「気枯れ」と書いていた。気は元気の気、元の気。元気の気は球。中心があって大きくなる。放射線状に広がる球体となる。
鳥山明さんのドラゴンボール、あれ「気枯れ」を理解するのには役に立ちますね。あの中で元気玉という言葉が出てきます。危機に陥った主人公の
「みんな、元気を分けてくれ!」
という呼びかけに応じた世界中の仲間達が
「悟空さん、僕の元気を受けってください!」
と気を送ると、主人公の手の中の元気玉がどんどん大きく膨らんでいく。
ピーターパンの中で死にかけた妖精ティンカーベルを助けたのは「妖精がいることを信じる」ということの印に手を叩いた子供達の拍手。
気が集まると命が満ちる。珠が膨らみ、大きな大きな球体となる。気が削がれれば命が枯れる。球体の色々な部分が削がれていく。削がれて欠けて小さくなる。収縮していく、穢れていく。
イザナギは黄泉の国を、黄昏の国を訪れた。そこで常世では嗅いだことのない臭いを嗅いだ。鼻が穢れた。
「ここで待っていて欲しい」という言葉を聞かず、奥へと進んだイザナミは、そこで沢山の蛆虫が湧き出て身に雷を纏わせた愛した妻の姿を見た。目が穢れた。
恐ろしさに逃げ出したイザナギは「見るな」と言った戒めを破り、夫が変わり果てた自分の姿を見たことに気づいたイザナミの怒りの声を聞いた。耳が穢れた。
穢れた分だけ、どんどん球体がへこんでいく。どんどん収縮し、小さくなっていく。
神が逃げる。「追いかけて、捕まえなさい!」と雷に命じる、かつての妻の声を聞きながら必死になって逃げる。体が、胴体が穢れた。
イザナギは必死になって走る。大きく息を吸い吐きながら。黄泉平坂を必死になって逃げる。口の中も穢れた。
どんどん球体が小さくなる。元気の源が小さくなる。気が枯れる。穢れる。
日本の神様は血の穢れを嫌うという。月の障りがある時は女は神様の側によってはいけないと。あれは意図的な誤り。日本の神様は血が大好き。
神様を喜ばせようと、諏訪の神社は鹿を、兎を、猪を捧げる。血は力のち。乳のち。命のち。
血は元気の源だから、血を流しているものに神様は悪戯をしたくなる。神様に悪戯されないよう人々は血を流しているものを神様の側から遠ざけた。穢れという名を利用しタブーとすることで神様に悪戯されないようにした。
イザナギ、イザナミの時代より、遥か彼方の先の時代、東征を終えたヤマトタケルは尾張熱田の地で尾張国造の祖となるミヤズヒメを娶ろうとした時の逸話からも古代の人々が血を穢れと捉えていなかったことが分かる。
再会の宴の時、もてなしを受けたヤマトタケルは自分に杯を捧げるミヤズヒメの襲の裾に月の障りのものがついていることに気づいて歌を詠んだ。
「ひさかたの 天の香具山 鋭喧に さ渡る鵠 弱細たわや腕を 枕かむとは
吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝が著せる 襲の裾に 月立ちにけり
(天の香具山を、鋭い声で喧しく鳴きながら渡っていく白鳥よ。その細い首のように、その白鳥の頸のように、かよわく細いなよやかな腕を、枕にしたいと私は思うけれども、あなたとともに寝たいと私は思うけれども、あなたの着ておられる襲の裾に、月が出てしまったことよ。)」
するとミヤズヒメはこう歌を返した。
「高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの
月は来経行く 諾な諾な 君待ち難に 我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ
(高く光る太陽のような皇子。国の隅々までお治めになっている我が大君よ。年月が訪れて過ぎ去れば、月もまた訪れて過ぎ去ります。いかにも、いかにも、あなたを待ちきれずに私の上着のすそに、月も出てしまいました。)」
そうして二人は、その夜枕を交わした。神様は血が好き。血を流せるような力に満ちた存在が好き。血を見て興奮した神様は、血を流した女と枕を交わす。女は神様の血を宿す。まれびとの血を宿すこととなる。
それは女の属する共同体にとっては望ましいこととなるとは限らない。望まないことは避けたがるのは人の常。
神様は血が好き。血を見たら荒魂となる。神様の力が増した時が荒魂。神様の力が平らな時は和魂。
黄泉を訪れたイザナギは穢れた。気枯れの気。元気が削がれた。神様は、その時にどうするかを考えた。神様も初めて気枯れを体験した。
イザナギは自分の体を覆う臭いが気に障った。それぞれの地には、それぞれの地特有の匂いがある。海の側は磯臭い。森の中は湿った土の香が混じる木の匂い。香辛料の香りは遠い異国の地を思わせる。
日本人は気づかないは、海外の人は日本人は醤油の香りがするという。どの土地にも異邦人には違いを、同郷人には郷愁を与える香りがある。
イザナギは黄泉を訪れた。自らの棲まう場所とは異なる匂いを持つ出雲に攻め入り、そして負けた。自分を叩きのめし、よもやのところまで追いつめた出雲の地の臭いを見に染みこませたイザナギの前に大きな川が現れた。
風呂で身を清めることが日常となった今の日本人には気づかれにくいが、身を清めるということはそう簡単なことでわない。
川で身を清める。海で身を清める。夏ならいいが、その他の季節は身を清めた後どうなる?水で身を清めたことで冷えた体をどうやって温める?
火を焚くには労力がいる。材料がいる。戦国時代、堂上人でさえ風呂は決められた日に味わうだけの贅沢だった。
各地に残る戦国武将の隠し湯は、温かな湯で身を清め、戦で受けた傷を癒すことをどれだけ貴重なことだと考えていたかを物語る。
今でも水が貴重な乾燥している地域では一生に数えるほどしか風呂に入らない人も多い。垢でガチガチになった体は常在菌で覆われているようなもの。
水で身を清めるというのは常在菌のバリヤーを洗い流すということでもある。
それでもイザナギは着ているものを全部脱いだ。身に着けたものを全て捨てた。一からやり直そうと思ったら前から持っているものはいらない。
汚くなった衣。黄泉の臭いが染みついた髪の毛の香、全部捨てた。全てを捨て、身一つとなってイザナギは川に入る。
川の流れが速いところでは速すぎる。川の流れが遅いところでは遅すぎる。川の中の瀬、少し緩やかなところでイザナギは身体を洗う。
イザナギが穢れた身体を洗った時、八十禍日神、大禍津日神が生まれた。黄泉の国へ行った穢れから、災禍の神が生まれた。その禍を矯めなそうと神直毘神、大直毘神、伊豆能売神が生まれた。こうして禍の神と禍を直す為の神が生まれた。
イザナギは身を深く沈めた。深く深く身を沈めたまま川から海へ。海の底まで身を沈めた。深い深い海の底。そこでも身をすすいだイザナギから底津綿津見神と底筒男命が生まれた。
イザナギは温度に少しずつ慣れながら水の中を上がっていく。潮の中でも身をすすいだ。これによって生じた神が中津綿津見神と中筒男神。
イザナギは、さらに上がり潮の上に浮いて身をすすいだ。この時に生まれた表綿津見神と表筒男命。
底筒男命、中筒男神、筒男命は、いわゆる住吉三神。海の神であり、和歌の神。
底津綿津見神、中津綿津見神、表綿津見神は海の神であり、禊から生まれ、祓いの力を持つ禊の神。
日本書紀には、この時どういう心の動きをするかが大祓祝詞によって書かれている。
大切な人と別れたり、大切な人を亡くしたり、感情が激しく動くのは川の瀬に似ている。速川の瀬に坐す神は瀬織津比売。感情が一番激しい時は瀬織津比売に祓ってもらう。
十日間かけて瀬織津比売は激しいところから緩やかなところへ流れ出る。あわいの海。川と海の間の汽水域。潮の干満で淡水と海水が行ったり来たりするところ。
過去の思い出が強く現れたり、淡く現れたり、行ったり来たりをするような状態。だんだんと思い出す時間の幅が変わっていく状態。
そういう時に速開都比咩が現れる。行ったり来たりしながら思い出すことが少なくなっていく。生々しい辛さから語ることの出来る話題の一つとなっていく。
行ったり来たりが繰り返されることによって、心に与えられるダメージが減ってゆく。心が汽水域から海へ出る。
心が起きたことをようやく受けとめられるようになったことを見極めてから、気吹戸主は根の国、底の国へと息吹を放つ。
優しく息を吹きかけるように慰撫していく。辛さに気づいた人々が優しく息を吹きかける度に辛いことが少しずつ事象の底へと沈んでいく。
自分に様々な思いを与えてきた色々なものが根の国、底の国へと沈んでいく。悪縁であれ、良縁であれ、いったん縁を結んだら絶対に切れない。絶対に覚えている。
罪、穢れは無くならない。永遠に彷徨っていく。人が何かのきっかけで思い出せるように。絶対に思い出せるように。
速佐須良比売が根の国、底の国へと送り出された罪と穢れを持ち出して彷徨ってくれる。
大祓祝詞に記されている祓戸四神は気息吹主以外は全て女神。男神は直視できない。気が枯れるほど辛いことに襲われたものを。優しい慰めの言葉よりも、川の流れが急流になるほどの激しい雨を望む心を。ただ優しく息を吹きかけることぐらいしか出来ない。
こういう状態を繰り返すことによって心に空きが出来る。黒く、固く、小さく収縮した珠に隙間が出来る。心に空きが出来たら新しい空気を入れられる。
その為の禊。禊、祓は自らを清め祓う為のもの。四つの事象、四つの心の動きを経ないと気枯れを祓うことは出来ない。
「嫌なことが続いたから、お祓いにでも行こうか」
人がそう思えるようになった時は速佐須良比売の許まで来ている。それまでは人は何度も同じ葛藤を繰り返す。
気が枯れる。身を清める。神様もそれをなさった。日本書紀には人の感情も神様の段階で語られている。神様も間違える。元気が無くなる。
これから先、人間の力はだんだんと削がれてゆく。削がれてゆくような時代になっていく。かつては矜持のある人達がいた。今は矜持のある人をリスペクトすることもない。
作家、佐藤愛子は街中で偶然耳にした夫婦の会話を聞いてこう記した。
「有能な人は多くなったが、えらい人はいなくなった」
大臣が汚職でやめるニュースに
「えらい人がこんなことをするなんて世も末ね」
と嘆く妻に、夫が応えた。
「あんなの何もえらくない。ただの総理大臣じゃないか」
なら、夫の言う「えらい人」というのは、どういう人なのか?と問う妻に
「えらい人ってのは、自分の欲を抑えて世の為、人の為に動ける人だ。誰だって金は欲しい。そこにあって、ちょっと手を動かせば簡単に手に入る。人間ならば当たり前だ。
えらい人は、そこでグッと我慢する。いやいや、そこでそんなことをしたら世の為、人の為にならないと自分を抑えて世の為、人の為になることをする。
ああ、えらいお人だ。俺にはとてもじゃないけど真似できねえ、そう思わせる人をえらい人って言うんだ。」
彼女がそう書いたのは昭和の時代。そこから更に時代は進み、人間力のある人をリスペクトすることのない時代がやってくる。
これから先、私達の一番の友達はスマホやPCになっていく。これから私達の元気を無くすのは友達や人間関係ではない。これからの子供達は友達を、どんどん買い替えられる。
これからの私達の人間力の迎え方。新しい人間の在り方が三貴子につながってゆく。
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