第17回 三貴子

開催直前までの組織委員会のグダグダと開催されてからの選手達の活躍との対比が際立つ五輪が続いておりますね。

オリンピック開会式で使うことを目指していた KIMONO プロジェクトが参加各国をモチーフとした振袖の素晴らしさに賞賛が集まる一方で、プロジェクトを企画した主催団体内での内紛が伝えられるように何かを成そうという大きな力が動く時には夢や志だけではなく利害や我欲も集まります。

「今はイザナギとイザナミが夫婦別れする寸前の世界」

 以前、宗匠はそのように語られました。

イザナギとイザナミ、共に手を取り合って日本という国を生み育てた二神の関係はカグツチの出現で終わりました。

 火の神を生み出した後、イザナミは豊葦原中つ国に夫であるイザナギを残し黄泉の国へと旅立った。

何もかも燃やす強い火を、鉄さえも溶かす強い火を、製鉄に必要な強い火を熾す技術を手に入れたイザナミは、イザナミを神と仰ぐ集団には時代遅れの技術にしがみつくイザナギのもとに留まる理由などなかった。

不要になった王を捨て、イザナミは自らの本拠地へと去る。

 共に国を興した相手を、信頼できる同盟者を諦めきれなかったイザナギは、黄昏の国へ、イザナミの新しい住処へ、中央の王に従わない出雲の王の棲まう土地へと出向き、声だけ姿を現したイザナミに向かって再び夫婦の縁を結ぼうと必死になってかき口説く。

交渉は決裂し、イザナギはイザナミに負けた。

 製鉄技術というイザナギ軍の持っていない技術を持ち、その最新の技術が作り上げた武器で身を固めたイザナミ軍に徹底的に負けた。

何もかも捨て必死になって逃げ、這う這うの体で出雲から逃げ出し命からがら九州まで落ちのびた。

 敗けた王に味方するものなどいない。各地の豪族達は沈黙を守った。時代に取り残され敗れた王のことよりも自分達の一族の安全の方が重要だった。時勢がどう動くのか、豪族達は見極める必要があった。

 イザナギはイザナミに敗れた。かつては共に手を取り合った。互いにとって互いが必要だった。自分にないものを持つ相手の力を得て、二神は次々に新しいものたちを生み出していった。

 けれどイザナギは古びてしまった。イザナギを支える組織も古びてしまった。

「なんて麗しい乙女だろう!」

 かつて、イザナミを見てそう声をあげた稚い神は古びてしまった。

「なんて素敵な殿方でしょう!」

 かつてイザナミに、そう応えさせた稚い神は古びてしまった。

 新しいものを生み出せなくなったイザナギをイザナミは見捨てた。旧態依然の組織を変える力のないイザナギをイザナミは見捨てた。共に力を合わせても新しいものを生み出す力のないイザナギを、イザナミはカグツチの誕生とともに見限った。

 イザナミに去られ、諦めきれず黄泉を訪れ、待てというイザナミの戒めを守れず黄泉のもの達を怒らせ、命からがら黄昏の国を逃げ出したイザナギは今までの自分ではいられないことを、大建替の必要を、禊をしなければならないことを悟った。

 黄泉の国を訪れたイザナギは穢れた。気が枯れた。穢れを祓う為にイザナギは身に纏っていたものを全て脱ぎ捨て、身を削いだ。身体に染みついた気枯れを、固い鎧のように身体を覆っていた垢を落とす為に持っていた全てのものを捨て、身を削いだ。

 黄泉を逃げ出したイザナギは、出雲の者たちに敗れたイザナギは今までの自分ではいけないことを悟った。イザナミがいなくなった今、変わらなければいけない自分を悟った。変革が必要なことを理解した。

 しかし、イザナギを支える者たちはイザナギと同じ考えの者達ばかりではなかった。イザナギとイザナミが並び立ち国を造った時代を懐かしむものは多かった。その時代を忘れないものは多かった。

 イザナミのいない時代を受け入れて、新しいやり方を選びとっていくことに抵抗を示すものたちもいた。

 大建替が必要だとイザナミは思った。自分が死ぬか一人になって新しくなろう。持っているものを全部捨てよう。イザナギが、そうせざるを得ないほど組織がカチカチになっていた。

 イザナギは死を覚悟して身を削いだ。禊をした。

 自分が死ぬか、組織を捨てるか。イザナギは今までの自分の組織を全部捨てた。自分を守ってきたもの、自分を支えてきたもの全部捨てた。新しいものを得るためには、今まで持っていたものを全て捨てなければ得られないと覚悟した。

 神様が全部捨てた。全部捨てて、身を削いで禊をし、穢れを、枯れていた気を自分の身から捨て去った。大建替をする用意は整った。

全てのものを捨て去った後、新しい未来を作るにはどうすればいい?

 人間力しかない。人間の力しかない。どのような人間力をもってイザナギは国を建て替えたのか?イザナギは国を建て替えた。この時生まれた高天原の神道の考えが2000年後の今も引き継がれている。

 2000年続くほどの人間力。それを象徴する三貴子の誕生。三貴子を生み出したのは変わらなければいけないというイザナギの渇望。三貴子を生み出すほどの焦燥と閉塞感。高められた渇望。

 今、直面している混乱は三貴子が生まれる直前の時代に似ている。世を覆う閉塞感。我々自身が自分で閉塞感を高めている。閉塞感を溜めていくことで、どんどん変化の為のボルテージをあげていく。

 世の中が上手くいかない時、それまでの世の仕組みでは生み出された歪みに対応できない時、西洋や東洋の他の国では革命が起こる。天命に従って国を変える。為政者を変える

 世が大きく変わる時、変化の為のエネルギーを必要とすることはどの国も同じ。このままではいけないというエネルギーが容量を超えれば、それは爆発へとつながり変化を促す。

 今、私達は自分達でコロナやオリンピックを理由に閉塞感を高めている。どんな閉じ込められた状態でも自分を解放する方法を人は皆持っている。書を読むもの、絵を描くもの、音楽を奏でるもの。各々の閉塞感を取り放つ方法論を持っている。それをしている間は時すらも忘れるという己を解放するものを持っている。

 けれど、今、その方法論を使わずに閉塞感を高めている。

 白村江の戦い、壬申の乱、道鏡を天皇にと望んだ称徳天皇、桓武天皇の平安遷都、源平の戦い。源平の戦いの間に南海トラフ地震があったことも古文書には記されている。

 私達の国は、今までのやり方が上手くいかなくなると、何回も変革の為のボルテージを上げて、国を建て替えてきた。その度に変わってきた。今の着物の着方は関東大震災以降の着方。残された写真を見れば、それ以前の着方が日常着として纏うことを前提とした緩い着方をしていることが分かる。

 私達は国を建て替えることによって、その時の常識を平気で建て替えられる人種。我が国では国を変える時に革命を起こさなかった。起こさないでもやってこれた。何故、変化の為の革命を起こさずにやってこれたのか?

 イザナギが禊、祓い、そして生んだのは三柱の神。この神々を生んだ後、イザナギは隠れ宮に隠居する。王権を立て直す為に禊をし、王権を立て直す為に隠居をする。

 イザナギは古びてしまった。新しいものを生み出すことのできない時代に取り残されたものとして、その言葉に耳を傾けてくれるものがいなくなってしまった。

 イザナギは、次の世の為に三貴子を、三つの人間力を象徴する神を生み、これ以降隠れ宮へと姿を消す。

 イザナギが最後に生んだ三柱の神。アマテラスは日の国を、ツクヨミは夜の国を、そしてスサノオは海を統べるものとしてイザナギから生み出されたもの。

 太陽の属性、月の属性、海の属性。太陽、月、海、それぞれが表す人間力。

 人間と猿との違いはどこにある?それは哲学。人は哲学を持ち、猿は哲学を持たない。東の空から現れる光と暖かさと安全をもたらすものを手に入れようとアフリカを後にした人類は、太陽がけっして自分達のものにはならない、自分の手には入らないと分かった時、それを「祀る」という考えを得た。

 アマテラスが象徴する太陽とは、哲学。人間が最初に手に入れたもの。誰もが持っているもの。理念を持つということ。その当時の理念は「敬う」ということ。2000年前、敬う対象は自然だった。

太陽を敬うという関係を地上に持ってきた時、人を敬うということ。お互いの尊厳を尊重するという考えが生まれた。太陽は常に現れ、しかし決して人が我がものとすることの出来ない距離がある。

太陽との距離が、人と人との距離感。互いを尊重するには適切な距離が必要。手に入らない距離にある太陽を尊重するように、互いを尊重できるだけの距離を保ち、お互いに尊厳を持って尊重する。

 月の神であるツクヨミが象徴する月とはmoonであり、calendar。すなわち規律。規則正しい生活をする。規則正しい行いをする。ツクヨミは禁忌を作った。「やってはいけないこと」を作った。西洋で言えば十戒。人としてやってはいけない行い。

 これが月の考え方。やってはいけないことを作ろうとする。世の中が上手く回るよう規律を保つ為の戒めを作る。

尊厳を持つこと。

人としてやってはいけないことを作り規律を保つこと。

これが太陽と月の考え。

 では、海の考えは?スサノオは勇猛な神だった。スサノオを生み出したことをイザナギが自分で自分を褒めてあげようとするほどの勇猛な神だった。なのでスサノオは最も勇猛な息子に海を支配させようとした。海を統べらせようとした。

 けれどスサノオは海を治めなかった。全力で泣いて拒否をした。スサノオは何故海を治めることを拒んだのか?古事記では、ここまで海は出てこない。イザナギの禊の後、大建替をして初めて海が出てくる。

 では海とは何を意味するのか?イザナギはスサノオに何を求めたのか?大建替をした結果生まれた最も勇猛な息子に海の主となることを命じたのに、何故スサノオはイザナギの言葉を拒んだのか。

 私達の国は島国。島国にとって海とはマレビトが来るところ。災難を起こすところ。風も波も全て海から来る。

 スサノオは、それを治めることは出来ないと思った。

 海のエレメントはマレビト。人間、災害、疫病。外国からは恵みも怖いものも来る。これをイザナギは強い男の子に、最も勇猛な息子に統べらせようとした。

 スサノオは、それは無理です、と断った。この無理です、という考え方が人間力。

 スサノオは海を統べることは無理だと思った。恵みも禍も共にもたらすところを、恐怖も喜びも共に運んでくるところを自分が治めるのは無理だと思った。

 最も勇猛な神でさえ無理だと思うことをイザナギは命じた。その無理を受け入れろとスサノオに命じた。

 スサノオは、その無理を拒否した。

「無理です、嫌です、出来ません」

 父神に命じられたことをキッパリと拒否した。父神が怒り狂っても泣き叫んで抵抗し、イザナギが諦めるまで拒絶した。

 人間の中で一番大変なのは拒否。受け入れることは大変。それまで神様の世界に拒否というものはなかった。いや、それは日本だけの話ではない。どの国々でも神の言葉を拒否するものはなかった。

 スサノオは拒否をした。最も勇猛な神は拒否をした。アマテラスが表す高邁な理念。ツクヨミが示す規律と規則を守ること。

この二つを拒否する力を我々は持っている。そういう人間力をスサノオは示している。我々が出来ることの三つめ。拒否。それを受け入れた神様。

 どの世界でも神様の言うことは正しい。日本は、神様の言うことだけど拒否します、という人間力を認めた。それがスサノオ。

病気を、災害を統べるのではなく、統べられないという諦めの力を得た。

 石の柱を建てても日本では通用しない。石の城壁で囲っても日本では通用しない。石の礎石があっても地震や台風で全部壊されてしまうと諦められた。

 そういうのは無理です、と諦められた。拒否できた。出来ません、無理です、と拒否できたから革命が起こらなかった。拒否する力があった。この人間力があらゆる災害から人間の心を守っている。

 この守ってくれるのが日本の大神様だと日本人は思っていた。スサノオの拒否をイザナギは受け入れた。与えた命を受け入れるのではなく、与えた命を拒否することを受け入れた為政者。

 拒否という言葉は古事記の中に入っている。スサノオは非常に人間らしい神。拒否を示している神。

 私は、拒否することができる。これは出来ません、と言えることが出来る。スサノオは古事記の中で繰り返し現れる。そして、その度に教えを示してくれる。

 拒否する神というベースがスサノオにある。全ての話が太陽の神勅を拒否したところから成り立っている。父神の神勅を受け入れなかった神というのがスサノオのベースにある。

 我々には拒否するという力がある。神の、為政者の考えに添えなかったら拒否するという逃げ道がある。そういう逃げ道を最初に作った神。

 AIは良いと思うものだけを引っ張ってくる。高い理念から一番いいと思う方法を選んでくる。スサノオは全部反対。

 AIに拒否するという考えはない。拒否することを持っている人間でもスマホを手放せない。機械音痴ですら機械がないと生きていけなくなるようになってくる。

 機械力で人心を動かすという時代になると三貴子の考えが通用しない時代になるのではないか。人間力というものが分からないAIに親和性のある世代が大人になる。

 時代は、いったん車輪が動くと止まらない。便利な方へ便利な方へとどんどん傾いていく。

 拒否するという力が日本人から弱まっている。拒否ではなく諦めが広がっている。拒否する力があるのにしない。嫌なものを拒むことは出来るのに、嫌だと拒否せず、仕方ないと諦め受け入れていく。

 我々の拒否する力が薄まっている。海は親和性があると同時に生き物を拒絶している。恵みをもたらす場所であり、容赦なく人を殺す場所である。

 どこまで便利を求め、どこまで拒否するのか。

 西洋の拒否は拒否ではない。自分の意見があって相容れないものを拒む。日本の拒否は代案を出したわけではない。ただ拒絶する。「嫌だ!」と納得できないものを拒む。

 高邁な理念も、世を動かす規律も規則も、「これは違う」と思ったら拒絶する。父神の命に逆らい、姉神や兄神とは異なる道を選んだスサノオ神のように。

 日本人の物語には日本人の人間力が宿っている。歴史の輪、歴史の波が動き始めた。人は何かを得る代わりに何かを失う。我々は便利を使いたい生き物。人が便利を求めることは止められない。

 便利と引き換えに、何を失うのか。何を失ったのかを理解したうえで、進むことが出来るのか。

 一所懸命、一つの所をずっと懸命に耕して、そして最後に拒否があった。自分の場所で一所懸命力を尽くして、それでも納得出来ない時に拒否できるという考えがあった。

 拒否できるというのは一つの方法論。小さいことに無理と言うけれど、大きなことに無理と言っていない。生きていくという最終的な選択の為に「無理」という言葉が出てくる。

「嫌です、無理です、出来ません」そう拒否をしては大建替をして、この国は革命を起こさずに変化に合わせて世の中を変えてきた。

拒否できない時代と思われていた封建時代でさえ、農民達は「無理!」と思ったら拒絶した。領主の命を拒絶する為、村人一同心を合わせ、皆一斉に逃げ出した。

 生きていく為に「無理!」だと思ったら拒絶できるのがこの国の強み。この力が弱まっている。

小さなことは「無理」だと騒ぎ立てるくせに、選挙という自分の意志を示せる時には「行っても無駄だ」と最初から諦め参加しない人が増えている。

「自分は嫌だ」という意思も示せるのが選挙。「不満なら代案を出せ」という言葉にスサノオは騙されなかった。ただ「嫌だ!」と言った。

 父神の神勅だろうと「自分は嫌だ!」と言った。

 そうしてこの困った神は、様々な転変を経た後、八岐大蛇を退治しクシナダ姫を救った英雄となり、彼女を娶って出雲の主となることになる。

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