今年は8年ぶりに中秋の名月と満月が重なる年だったそうで。寸前までの台風到来で今年のお月見は駄目かと思っていた人もいたかもしれませんが、お出かけは我慢、人と会うのも我慢と我慢、我慢が続いている毎日に少しくらいはご褒美をあげようかと天が情けを見せたのか綺麗なお月様を堪能された方も多かったのではないかと思います。
「8年ぶりに満月と重なる」という言葉からも分かるように、誤解されやすいですが中秋の名月と十五夜は同じものではありません。
中秋、すなわち中の秋。秋の真ん中に当たる8月15日に出る月だから中秋の名月で、それが必ずしも十五夜と重なるとは限らないのですね。
この場合の8月とはグレゴリオ暦、すなわち今の社会を動かしている新暦ではなく、財政難を背景に、閏月のある太陽太陰暦よりも閏年のあるグレゴリオ暦の方が官吏に支払う棒給を減らせるという本音を押し隠し、文明開化の世の中になったのだから暦も変えてしまえ!と力技で改暦した旧の暦の8月です。
今でも東北地方では8月に七夕を行うように日本人の体感としては旧暦の方が季節にあっておりますね。
梅雨が明け、夏の盛りの7月に織姫と彦星は年に一度の逢瀬を楽しみ、実りの秋の8月にその年の収穫に感謝して月を愛でる。
お月見のお供えに関しては盗んでも咎められず、むしろこの夜だけはお月見泥棒として歓待されたのも収穫の喜びを皆で分かち合おうという人々の気持ちの表れ。
来年もこうやって収穫に感謝し、穏やかに月を眺められますようにという祈りが籠った風習です。
実りの秋の豊かさをしみじみと感じさせる月の中の兎。
月の模様を何と見立てるのかは国や地域によって異なります。中東ではライオン、欧州ではカニや女性の横貝、中南米ではロバ。
アジアでは犬やワニに見立てる国もありますが日本と同じく兎と見立てる国が多い。これは月の兎が仏教説話からきているからですね。
今は昔、猿、狐、兎の三匹が仲良く暮らしておりました。仏教では六道輪廻の考え方ありますから、三匹は
「自分達の姿が獣なのは前世で獣になるようなことをしたからかもしれない。前世は変えられないけれど、今生は変えられる。何か人の役に立つことをしていこう」
そう話しあっておりました。それは耳にした帝釈天は、その気持ちを試してみようと貧しい老人に姿を変えて三匹の許に現れました。
「お腹が空いて動けないんです。何か恵んでくれませんか?」
それを聞いた三匹は人の役に立つことが出来ると喜んで食べ物を集めに行きました。猿は木に登って木の実を集め、狐は川へ行って魚を獲ってきました。ですが、兎は一生懸命頑張ったのに老人の為に何も持ってくることはできませんでした。
「もう一度探してくるから火を焚いて待っていて欲しい」
そう言って再び兎は食べ物を探しに出かけましたが、やっぱり何も持ってくることは出来ませんでした。
「私達は、おじいさんの為に一生懸命食べ物を探してきたのに君はいったい何をしていたの?いいことをしたいという言葉は嘘だったのかい?」
狐と猿はそう言って手ぶらで帰ってきた兎を責めました。兎は無力な自分を嘆いて老人に言いました。
「私には猿さんや狐さんのようにおじいさんの為に取る力はありませんでした。どうか、この身体を食べてください」
そう告げると兎は火の中に飛び込み自分の身を老人に捧げました。それを見た老人はすぐに帝釈天の姿に戻って言いました。
「おまえ達の気持ちはよく分かった。今度生まれ変わる時はきっと人間にしてあげよう。そして兎の尊い行動を後々まで伝える為に、その姿を月に残そう」
これが兎は月にいると言われるゆえんです。日本は神仏習合の国ですから月にまつわる話に仏教説話が入ることに何の不思議はございません。
姉のアマテラスは太陽の仏である大日如来と同一視され、弟のスサノオは牛頭天王として病から人々を守る。
またこの二神にまつわる祭りは有名なものが多いですね。伊勢の式年遷宮を知らないものはいませんが、博多花笠、京の祇園祭と弟のスサノヲの方も賑やかさ華やかさでは負けていない。
では真ん中のツクヨミにまつわる祭りは?ツクヨミと同一視される仏は?そもそもツクヨミについての神話は何でしょう?
アマテラスの天岩戸隠れ、スサノオの八岐大蛇退治、姉にも弟にも神話をよく知らない人でも知っている有名は話がある。
ではツクヨミは?ツクヨミにまつわる神話は?読みから戻ったイザナミが禊をした時に生まれたという誕生にまつわる神話以外でツクヨミについて知られていることは何でしょう・
皇統に連なる神なのに、三貴子の中の一柱、姉アマテラスに次いで生まれた大切な神なのに日本神話の中でツクヨミの影は薄い。出番がない。
古事記では生まれたという描写があるだけ。日本書紀ではオオゲツヒメにまつわる穀物起源神話の時に出番があるだけ。
姉や弟と比べるとツクヨミは明らかに影が薄い。他国の神話と比べると更にツクヨミの影の薄さが際立つ。
ギリシャ神話のアルテミスを筆頭に、不死にまつわる逸話を持つ中国神話の嫦娥、豊穣の女神である母イシスの助力を得て、父オシリスの仇を討ったエジプト神話のホルス。
各国の月神達は生きいきと神話の中でその存在感を表す。なのにツクヨミだけが影が薄い。
またそれぞれの神話の中で月の女神は一柱とは限らない。
処女神、狩猟神として知られるアルテミスと美青年エンデュミオーンとの恋物語で知られ人間である彼においていかれることを怖れ、ゼウスに願って恋人に不老不死の永遠の眠りを与えたセレーネ
天空神でありファラオの権威と強く結びついたホルスと知恵の神、時の管理者として知られるトート
日本でも伊勢神宮には異なる表記で記された二つのツクヨミ宮がある。内宮にある月讀宮、外宮にある月夜見宮。
日本では月という言葉には二つの意味がある。そのことをこの二つのツクヨミ宮を表している。月讀すなわちcalendar、月夜見すなわちMoon。Calendarが先なのか、Moonが先なのか。CalendarとMoonは別の神様なのか。
イザナギは生んだのは一柱だと記されている。生まれたことは分かった。だから、ここで生まれたのはMoon。月が生まれたと分かる存在感がある。Calendarには存在感はない。だからより古い神はMoon。夜にこの地を照らす神。
月の神の性は一定はしていない。シュメール神話、スラヴ神話、メソポタニア神話では男性神として数え、ギリシャ神話、ウェールズ神話、アステカ神話では女性神として数える。そして中国神話、エジプト神話には男性神も女性神もいる
日本では登場の仕方によって男と女に分かれる。Moonが女子か?calendarが男子か?一応はアマテラスの弟神、スサノオの兄神ということにされてはいるが、古事記を読んでも日本書紀を読んでも、その性別はわからない。
出演回数が少なすぎて、どんな性格をしているのかも分からない。どんな役割を持つ神なのか、それすらもよく分からない。
ツクヨミは考えも性別もまったく分からない神なのに貴神とされている神。ここにツクヨミの役割を読み解く鍵が隠されている。
普段はあることを意識しないほど存在感がない。けれど大事な神。すなわちツクヨミが象徴するのは法とスケジュール。
法律があるから私達は生きていられる。私達は世界有数の安全な国に生きている。70年以上、戦争も内乱も経験していない国などこの世界に幾つあるのか?
だから自分達は法に守られていると意識することは少ない。意識しなくてもいいほど法律に守られているからだ。
日本国憲法では、人間である以上必ず持っている権利として基本的人権が保障されている。これがどれだけ得難いものであるのかは「平等権」「自由権」「社会権」「参政権」という基本的人権を構築する権利を得るまでに、どれほどの時間がかかったのか、どれほどの血が流されたのか、その獲得までの歴史を紐解けば分かる。
法があるから基本的人権が守られている。法で守られているから生きていける。法律が守ってくれなければ私達は病院にも行けない。
皮肉なことに、そのことは名古屋入管で起きたスリランカ女性死亡事件に現れている。収容中、体調不良を訴えていたにも関わらず、二か月以上も放置され、呼びかけに応答しなくなるまで彼女は病院に運ばれなかった。
法に守られないということはこういうことだ。私達が、わりと平和に落ち着いて生きていられるのも個人としての生き方の奥の奥で法律に守られているからだ。
人が安全に暮らしていくうえで、法のない場所はない。内乱や戦乱で無政府状態に陥った場所でも部族法が生きている土地と部族法にも守ってもらえない土地では子供の寿命の長さに違いがある。
日本人がどれほど法に守られているのか。ずっとにで暮らしていた人達はそのことに気づきにくい。だが、この地の外で生まれた人、この地の外で暮らした人にはそのことに気づく。異国で生まれた人達は言う。
「日本の安全、これは凄い」
どれほどこの国に不満があったとしても、このことについては評価する。私達が知らないところ、気づかないところで法は私達を守る為に効いている。
ここで忘れてはいけないのは法というのは、「さんずい」の文字で表されていること。すなわち固定化されたものではない。流されるもの、無くなるもの、去っていくもの。
不要になったらや止めることことの出来るもの。変えることの出来るもの。
そのことを忘れて「法が実情にあっていない、政治が悪い」は変えられるものを変えようとしないだけのこと。
「政治が悪い」は、結果的には私達が悪い。
イザナギは禊の後にアマテラスとツクヨミを生んだ。太陽と月を生んだ。では太陽と月の違いはどこにある?
昼を照らすもの?夜を照らすもの?イザナギは何を期待してこの二神を生み出したのか?
お天道様が見てござる。太陽の動きによって、私達は動く。
太陽は形を変えない。太陽は名前を変えない。同じ姿、同じ名前で東から登って西へと沈む。
月は姿を変える。一夜違えば形は変わる。一夜どころか数秒でさえ、月は刻々形を変えていく。変える姿に従って月も名前を変えていく。
一月、三十夜、それぞれの異なる名前を持つ月を抱く国はこの国くらい。
一夜ごとに異なる姿。姿が変われば名前を変わり、名前が変われば役割も変わる。月は常に変化する。球体は満ちては書ける。
日本では神は人心の仮託。人心は満ちては欠ける、人の心は満ちては欠ける。これを法にたとえた。
法は完全なものではない。法は変わらないものではない。法は満ち欠けするもの。これを守っていくことで人に役割を与えた。
役割とは何か?働き蜂の群れには常に25%の働かない蜂がいる。働いている蜂だけを別の場所へと移しても、やはり25%の働かない蜂が出来る。
これは働かないという役割を蜂の社会の中でつけられているから。通常でないことが蜂の群れに起こった時、常時には働いていない25%の蜂達が動き出す。
危機に対応する為に25%の働かない蜂がいる。蜂の群れは言葉ではないことで、それぞれの役割を作り出す。
人は、これを言葉で、文字で、慣習で行う。
あなたのすることは、これだと意思伝達をすることで人の役割を作る。社会の中での役割を作ることで人心が固まってくる。
法によって人の役割をつけてあげることで、人は社会の中の立ち位置を得る。
月は満ち欠けをする。法は満ち欠けをする。法は無くなる、去っていく。これが必要だと人心でもって盛り上がる。
こうしてできた法律も、不要だと人心が盛り下がったら止められ消えていく。これが法(のり)
月が表しているものは法。人心の中にあって我々が生かされているもの。これが法。人心が作ったもの。
天照は憲(のり)。天が作ったもの。我々が不可侵なものとして侵させないものが憲。
「お天道さまに恥じないこと」はどんな時でも変わらない。
法は我々が作れるもの。水のように流せるもの。不要になったら変えられるもの。これが法。
役割が出来ると、それを貫徹する為にスケジュールが出来る。この時期には、これをしよう。これも法。
月は常に我々を縛る。太陽が三日出なくても私達は生きていける。時間が多少狂っても、昼夜が逆転した太陽を見ない生活を送っていても私達は生きていける。
だが、月がなければ我々は狂う。スケジュールは変えられない。スケジュールを変えられると人間は狂う。
月がなければ、女は身体の中の月さえ狂う。
社会の外で暮らしていると思われがちなホームレスの人達も規則正しく生きている。この時間に起きあがると自分なりにスケジュールして動く。自分で自分をスケジュールする。
人間はスケジュールなしでは生きていけない。
自由人こそスケジュールで動いている。自分にとっての要・不要というスケジュールで動いている。
法は役割を作りだす。
人間の法とスケジュールが人心を掌握するのに非常に役に立つことにイザナギは気づいた。
動物園のパンダでさえスケジュールで動く。閉園の音楽が流れると厩舎に帰っていく。それほどにスケジュールは人を縛る。
人の月欠けと月のスケジュールで人心を纏める為にイザナギはツクヨミを作った。
人の役割と人のスケジュール。
介護施設に入居しているお年寄りの中にはスケジューリングされたくない人もいる。
役割がなければスケジューリングは不要。スケジュール通りに動きたいのは役割のある職員であって、役割がない人の心は縛れない。
社会を掌握するのは役割とスケジュール。
人心を掌握するには役割を与える。そのことを本人には気づかせない。社会の為だと思わせる。
「お天道さまが見ている」と憲法を立てたら法律も出来る。崇高なものを立てたら、その崇高なものから離れないように役割を立て、スケジュールを遂行させる。
世界中で、これほど守られている国はない。
ちゃんとスケジュールされて出来たものがあるから生きていられる。
スケジューリングされたものから生まれる恩恵を私達は当たり前のように享受している。
スケジューリングされた行動によって望んでいた収穫物を得る。その収穫物は、生産者から加工者の許へスケジュール通り運ばれ製品となる。
出来上がった製品は、スケジュール通り販売業者の許へと運ばれ、販売予定通りに発売された商品を消費者は購入し手元に得る。
一つのスケジュールは次のスケジュールへと繋がっている。
社会がスケジュール通りに動かない。震災で、水害でそういうことが起こった時に私達はそれに抗う人の姿を見た。
社会の為、人の為、お天道さまの為にスケジュールを守られねばという考え方、守ろうという矜持。
この考え方は役割としての関係が近くなるほど強くなる。
道々の輩、かつて常民とは異なるものと見なされ、仰ぐものは天皇しかいなかった人達が祀っていたのも月。
太陽を仰ぐ人達から、おまえ達は自分達とは違うものだと拒絶されても彼等は月をお祀りすることで自分達は自由民だと口にできた。
天子様を崇めること以外は自由だと月の光の下で口に出来た。
法律は見方によっては、とてもフリー。川に流れていくようなものだから、頭が良くて自分の為に法を利用したい人は自分に都合よく法を解釈出来た。
法からどれだけ自由になっていくか、法を見つめて研究した。
声の大きいマイノリティが騒ぎ出すとそれが法になっていく。世が乱れるとマジョリティの力が弱くなる。
自由を勝ち取ろうと思うのなら法律に則した方がいい。
憲・法・則、全て違う。憲は変えられない。則は自由は効く。金で買える。
夜を歩く人達、我々とは違う見方で月を見ている人達は言えないところを見るような視線で月を見る。法を見る。 そして自由を得ている。
日に背く形で月を祀る。夜を祀る。
AIは発達していく。どんどん、どんどん「正しい答」を作りだす。誰に取っての「正しい答」を?
月の満ち欠けと同じように変えていくことが出来るのが人の心。だからイザナギはツクヨミを作った。
役割は人を育て、人を縛る。
こういう役割はどうだろうかと望まぬ役割を与えられた時、「拒否する力」を見出すことは出来るのか?
AIの発達は、それを許すことが出来るのか?
かつてアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントはゲシュタボの長官であったナチスの高官について「凡庸な悪」と評した。
役割は人を育て、人を縛る。立場は人を変える。役割を与えられたものは、役割をこなそうとする。
己の役割を果たす為に人はどんどん成長していく。より確実に、より効果的に、より周囲からの評価を得られるように、己の役割を果たす為に全力を尽くす。
ナチスの役人たちもそうした。より大量のユダヤ人を強制収容所に送れるように、より効率的に労働力にならない者達を処分出来るように。
与えられた役割をこなす為に力を尽くした。
マイノリティの考えがマジョリティの考えよりも強い力を持った時、そのことを拒否することを、これからもできるのだろうか。
自分が「違う」と思った時にちゃんと「違うんじゃないか」と言えるのだろうか。
月は変わる。新月から満月になっていく。役割も変わる。新月から満月になっていく。
法は流れるもの。流れるものは自分の方に都合よく引き寄せたくなるのが人の常。それをジャッジメントするのが憲。
中庸とは単純に真ん中にしようということではない。
異なる立場、異なる考え、そのどちらにも傾かない調和が取れた状態。
その中庸を作ってきた天秤の取り方が変わってきている。
正しい、正しくないと法は違う。正しい憲に則してという正則の仕方が違ってきている。
人は間違いを犯すもの。自分のしたことが間違いだと分かるのは、自分のしていることが憲から外れていると分かっているからだ。
自分は悪いことをしている。憲から外れたことをしていると分かっていても人は間違いを犯す。法だけでなく憲があることを知っている人は今の自分が間違っていると理解している。
けれど、すでに自分のしていることが間違いだと思わない人が現れた。間違っているとは思わないから、間違っていることを止めることもしない。
己の過ちを理解しないものは、間違いをやめることはない。
古事記の普遍性と連続性。
法はツクヨミが刻んでいる。法を守ったもの、守らせているものがツクヨミ。
イザナギは禊の後にアマテラスとツクヨミを生んだ。イザナミとの夫婦別れの後、三貴子を生んだ。
共に日の本の国を創ったイザナギとイザナミの技術力は二神が分かれる前に既に大きな差がついていた。
産業立国となっていたイザナミ国は、イザナギ国を破り、一時期日本を掌握した。
敗走したイザナギは、いかに国を立て直すか?を考えた。産業力でイザナミとイザナギの間には大きな差がついていた。
産業という力では、イザナミにとうてい勝てないことを理解したイザナギは、産業で日本を纏めていく以外のやり方で国を纏めていく方法は何か?を考えた。
そして三貴子を生みだした。
産業に打ち勝つのは人の心と二千年の間有効だった方法を生み出した。
人心を掌握する為に三貴子を生みだしたイザナギの英邁さ。
憲、法、則、すべて読み方は「のり」しかし意味するところは異なる。
アマテラスを生み出すことで、揺らがぬ規範を、己を律する矜持をイザナギは人の心にもたらした。
月は姿を変える。法も役割もスケジュールも刻一刻と姿を変える。法はさんずい。水であり、流されるもの。止まっているものではないことが法律。
新しいことの役割は、刻一刻と変わっていく。月と同じように変わっていく。
変わっていく役割をスケジュールに間に合うように果たす為には、良いもの、新しいものはどんどん取り入れていかなければいけない。
月は変わるもの。ツクヨミは変わるもの。
ツクヨミを生み出したことでイザナギは人の心が新しいもの、良いものを取り込むことを躊躇わないよう、良いものをどんどん摂取できるよう人心を持っていった。
戦国期でも、幕末期でもこの国を訪れた外国人は同じことを記している。
「この国の人間は貴人から庶民まで好奇心が旺盛だ」
幕末、黒船で来航したアメリカ人は、驚きが収まると珍しい黒船を見物しようと、船を仕立てて物見遊山気分で自分達の船に近づいてくる町人達の姿に呆れた。
私達は、それまで見たことがなかったものでも「これがいい!」と思ったら、どんどん取り入れようとする。
自分達がいるか、いらないか、まず近づいて確かめようとする。
だから私達の国は律法ではなく、法で支配されている。流れるもの、変えられるもの、常に同じでないもので治められている。
私達は神の言葉に従って生活していない。神の規範の中で、考えなさい、学びなさい、と伝えなくても自分達が「いる」と思えば、自らその通りにする。
自由に出来る、自由に動ける環境を作ることが月。
我々には見えていて、見えないというのが法律。見えていて、見えない法を作るのが政治。
だからツクヨミは見えない神。いるのに、あるのに見えない神。けれど貴神。
アマテラスに次いで、生み出さなければいけないとイザナギが思った神。
古事記は、その立場にいても為になる。社会を掌握しようとする人にもされる人にも為になる。ものの見方が多面的、多様的。
だから宮中以外の場所でも読まれた。語られた。
海でも、山でも、里でも古事記を読み解ける人が一族の長にいたら、これが我が一族の話と見える話が語られていた。どの一族にとっても欲しい情報を得ることが出来た。
人から人へ、古事記を読み解く知恵が蓄積されていくから話していけた。蓄積されていった知恵があるから理解できた。
蓄積されていった知恵がないと古事記を読み解ける人がいなくなる。大陸から、半島から、海洋から、この東の果ての地に集まった人々がどのように纏まり、くにを創っていったのか、どのように調和していったのかを学ぶことが出来なくなる。
月だけならば、殺し合い。だか月の前に太陽があった。
ツクヨミの前にアマテラスがいた。
アマテラスは憲
ツクヨミは法
アマテラスには、許しがある。
アマテラスが生まれてから、ツクヨミが生まれた。逆ではない。
アマテラスという太陽があって、ツクヨミという姿を変える法があり、姿を変える役割がある。
法も役割も満ちては欠ける。欠けては満ちる。一人の人の一生の中でさえ、役割は満ちては欠ける。欠けては満ちる。
月の名前は、幾つある?日本人は、それぞれの形、それぞれの役割に合わせて、相応しい名前を月に与えた。
どの状態の月を見て、人はその時の自分の姿を投影するのか?
イザナギが人心を掌握する為に生んだ三柱の神。
その最後の神スサノオは、日本の多様性の全てを表す神となる。
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