第20回 スサノオ

その死に対し、日本のみならず海外からも弔意を寄せられた大塚康生さんという名アニメーターがおられます。

 宮崎駿に

「アニメーションの面白さを教えてくれた人、アニメーターの眼でものを見始める──その入口を教えてくれた人」

 と語らせ、初めて自分が作画監督となった時に、当時無名の新人だった高畑勲を演出に指名し、高畑・宮崎両監督のスタート地点となった作品として日本アニメーション史を語るうえで外せな「太陽の王子ホルスの冒険」が生まれるきっかけを作った方です。

 このホルス、そのクオリティの高さと裏腹に報われなかった興行成績でも語られる映画です。処女作には、その作家の全てが現れるとも言われます。

 高畑監督といえば「自分がプロデューサーをする時は、予算や納期をしっかり管理するくせに、自分が監督をするとそこがメタメタになる」と評されるほと「予算より質」「納期より質」の姿勢が崩さなかった監督でして(この傾向は並び評される宮崎監督にもあり、宮崎監督と高畑監督との違いは「絵が描けなかった高畑監督と違い、宮崎監督は提出された仕事の出来に満足できないと『自身が最も信頼する天才アニメーター宮崎駿』に仕事をふることだ」とも言われます)、このホルスも東映動画の労働争議の時期と重なって製作が遅れる、遅れる。

 作画監督の大塚氏は、東映動画の企画部長から

「会社はきみたちにプレハブを作ってくれといっているのに、きみたちがやろうとしているのは頑丈な鉄筋コンクリートだ」

 と予算・納期の遅延について涙ながらに指摘を受けたという逸話がございます。会社のいうことを素直に聞いてくれない現場スタッフに涙したこの人物が、公開から32年後に開かれた旧スタッフの集いで

「皆、よく頑張ったな。あの頃が一番面白かったなあ」

 と、言ったところに映画作りの魔力があり、予算と納期で会社を泣かせ公開時には惨敗したこの映画が、後に再評価され、名監督名スタッフを育てた伝説の映画として語られたことを考えると評価というのは一時期の判断だけでは決められないものだと気がいたします。

 この完璧主義で理想の高い無名の新人が会社側を悩ませながら途中で降板されなかったのも、彼を支える信頼厚いスタッフ達の力があってこそ。

 なかでも作画監督であった大塚は実力、人格ともにスタッフからも会社からも評価が高く、「わんぱく王子の大蛇退治」での天早駒にまたがるスサノオと八叉の大蛇の空中戦での大塚氏の仕事の見事さは、信頼できる作画監督としての彼の言葉に重みを与えるものでした。

 この「わんぱく王子の大蛇退治」、興行的には大失敗したホルスと違い、興行としても大成功した作品で「当時4歳だったのに、この映画のことははっきり覚えている」と書く人もいるほど魅了された子供の多い作品でした。

 東映動画の「日本神話の天岩戸説話や素盞嗚尊の八岐大蛇退治に題材を採り、子供向けの明快なファンタジー映画をつくろう」という狙いが大当たりし、今でもDVDや動画配信サイトで観ることが出来るほど評価の高い作品です。

 イザナギや生み出した三貴子。どの神も尊い神であり、今の日本を作りあげた神でもあります。

 アマテラスは至高を、ツクヨミは法律を、スサノオは拒否を象徴する神として日本人の精神史を語るうえで欠くことのできない神々ですが、人気という点では、やや差があるようで、それがとてもよく理解できるのはこうした創作物の世界でしょう。

子供向けに日本神話を題材としてファンタジー映画を作ろうと思った時、主人公として考えられたのはスサノオ。

荻原規子は「空色勾玉」でスサノオをモデルとして、不死である輝の一族でありながら、輝の一族と敵対し、闇の女神を奉じる一族の定命の娘と恋に落ちる若者を描き

永井豪は荒神としてのスサノオにインスパイアされて、日本神話をモチーフにして「凄ノ王」を描いた。

 アマテラス、ツクヨミを主人公として作品もあるけれど、数でいえばスサノオをモデルとしてものにはとても及ばない。

 何故、他の二神の人気はスサノオに及ばないのか。禍津神であり英雄神。古事記の中で最も矛盾した位置を占める神。

 イザナギは黄泉比良坂を逃げ切った後、禊をして生まれた子供達のうちで最も貴い神とした三貴子にこう命じた。

「アマテラスは日の神に仕えなさい。ツクヨミは夜の食べ物の国を治めなさい。スサノオは海の神になりなさい」

 アマテラスとツクヨミは父神の言葉に従った。けれどスサノオだけは拒絶した。

「自分は嫌だ。そんなことは出来ない」

 父の言葉を泣いて拒否した。日本神話の中で「嫌だ、出来ない」という神はここまで出てこない。スサノオだけが完全に拒否した。

「海を治めろ」

 という父の言葉を

「嫌だ、出来ない」

 と泣いて拒否した。父神に拒否する理由を問われると

「海なんか治めたくない。母神のいる根の国に行きたい」

 と泣いた。父、イザナギは根負けして

「おまえの好きにしろ。そんなに母の住む国に行きたければ行くがよい」

 とさじを投げるまで泣き続けた。

 三貴子、最も貴い三柱の神。父の言葉を拒否したスサノオが後代まで貴い神であったのは何故なのか?

 拒否することは貴いのか?

 多様性をどのように許容するのか?ということを考える時、この「拒否」がキーワードとなる。

 スサノオは拒否する。拒否する力は多様性の一部。多様性を考える時「拒否する」ということが存在することも認識する。

 自分達とは異なるもの、異なること。そういうことが「あり」なのか「なし」なのか。それで判断すると判断を誤る。

 イザナギが海の神にすることを諦めた神。アマテラスの天岩戸隠れの後、神々が神議りにかけて、合議の末に高天原から追い出すことを決めた神。

 スサノオの犯した罪や穢れを髭や爪に移して、穢れを祓った身としてゼロから始めさせる為に高天原から追放される時に髭や手足の爪を切られた神。

 天から追放されるほどの罪を犯したと古事記に記されているのに、スサノオは三貴子の一柱。貴い神であり続けている。それは何故か?

 そこにスサノオは象徴する「拒否」のもう一つの意味が関わってくる。

 スサノオは「海を治めるものとなれ」という父の命を拒否した。最も勇猛な神と評される神が、その髭が長く伸びて胸まで垂れるほど、ずうっと泣いて拒否した。

 あまりに激しくスサノオが泣くので、山は枯れ木の山になり、川や海はからからに乾き、悪神達は、あちらこちらで騒ぎ、様々な魔物達がもたらす災いがいたるところで発生した。

「私は海を治めるものになんかなりたくない。亡くなった母君のいます国、根の堅州国へ行きたい」

 いつまでも泣いて拒否し続ける息子にとうとうイザナギは言った。

「そんなに海を治めるのが嫌ならサッサと母の許に行くがよい」

 途端に泣き止んだスサノオは、喜びいさんで父の許を後にした。すぐに母の住む国へ行こうと思ったが、その前に高天原に住む姉に別れの挨拶をしようと姉のもとへと足を向けた。

 荒ぶる神がやって来る影響で山も川も鳴り響き、大地は地震のように揺れ動く。弟が天へやって来ることを知ったアマテラスは、山を枯れ木の山とし、川海を涸らした弟が、今度は自分の国を奪いに来たのかと、男の衣装へと衣を替え、武装して弟を待つ。

「何の為に高天原に来た?」

 矢を矢筒に携えた姉に問われ、スサノオはアマテラスの誤解を解こうと彼女に告げる。

「母君の国に行く前に姉上に別れの挨拶をしようと思っただけのこと。私に他意はありません」

「おまえに邪しまな心無く、心が清く明らかだとどうやって知ることができる?」

 なおも疑うアマテラスにスサノオは誓約を持ちかける。

「ならば誓いをたてて、お互いの持ちものから子供を生んで、その結果で正邪を判定しましょう」

 アマテラスはスサノオの剣を取り、清冽な水で灌いでから三つに折って口に含み、噛みに噛み砕いた後、息吹として吐き出すとその息吹から三柱の女神が生まれた。

 次にスサノオがアマテラスが男装した際に巻きつけた勾玉を彼女の髪、頭、腕から取り、同じように清冽な水で灌いでから噛み砕いて息吹として吐き出すと五柱の男神が生まれた。

 生まれた神々を見て、アマテラスはこう宣言する。

「剣はおまえの持ちものだから剣から生まれた女神はおまえの子供。勾玉は私の持ちものだから、勾玉から生まれた男神が私の子供」

 姉の言葉を受けてスサノオは応える。

「私の心に邪心が無いから、私の剣からはたおやかな女神が生まれた。これで私の心の清さは証明できたでしょう」

 姉に自分の心の清さを認められたスサノオは、母の国へと行かず姉の国に留まった。留まるのはいいが、スサノオは、親からやってみてはいけないと止められたことを、本当にそうなるのか実際にやってみて確認したがる子供のように次から次へと騒ぎを起こす。

 田の畔を切り離しては溝を埋め、虫を放っては神々を怒らせる。そのたびにアマテラスは弟を庇った。

「田の畔を切り離し、溝を埋めたのは、その土地を畔や溝にしておくのはもったいないと思ってしたことでしょう」

 スサノオは騒ぎを起こしても、アマテラスはスサノオに幻滅していなかった。

スサノオの行動に抗議したのは高天原の神々、スサノオの追放を決めたのも高天原の神々。

 アマテラスはスサノオのことを拒否していない。スサノオが、どんなに騒ぎを起こしても、他の神々がどんなに彼を怒っても、スサノオを庇い、彼の行動を拒否していなかった。

 では何故アマテラスは天の岩戸に隠れたのか?アマテラスが天の岩戸に姿を隠した理由はこうであったと伝えられる。

 アマテラスが機織り屋で神に捧げる衣を織っていた時、スサノオが機屋の屋根の穴をあけ、皮を剥いだ馬をそこから逆さに落とした。

 そのことに驚いた一柱の機織女が梭が陰部に刺さって死んでしまった。このことに見畏みたアマテラスは天岩戸に引き篭った。

 梭というのは機織りの時、緯糸を経糸の間に通すのに使われる舟形の道具であり、先が尖った形をしている。

 スサノオが神聖な機織り屋に馬を投げ込んだことで、アマテラスの機織りを手伝っていた機織り女が梭を陰部に刺して死んだ。

 スサノオの行動に抗議する為に、アマテラスの侍女は手にしていた梭で己の陰部を刺した。

 騒ぎを起こし続けるスサノオとそれでもスサノオを庇い続けるアマテラスに抗議する為に、機織り女は自分で自分を指して自死した。

 これがアマテラスを激怒させ、天の岩戸に姿を隠させた理由。自分の侍女が抗議の為に死ぬという選択をしたことにアマテラスは天の岩戸に籠らねばならないほどの怒りを感じた。

 アマテラスは自分の存在が至高であることを知っていた。イザナギが人心を纏める為に自分という至高の存在を生み出したことを知っていた。

 至高とは全ての者の高見にあること。最も高く優れていること。

 貴方の言うことは絶対です、という神の前で一柱の神が自分の死によって抗議した。自死という抗議の仕方を選んだ。そのことにアマテラスは怒り、自分の存在に疑いを持った。

 機織り女は自死という拒否をした。死をもって抗議することで貴女に願っても無駄だとアマテラスに告げた。貴女ではこの状況を変えられないとアマテラスに告げた。

自分の侍女の死によって、アマテラスは自分に疑いを持った。自分よりももっと至高の存在がいるかもしれないと疑いを持った。

アマテラスは至高の存在。この世で唯一のものとイザナギが定めたものだった。そのアマテラスを機織り女は、自死という抗議の仕方を選択することで否定した。

 よりにもよってアマテラスの侍女が、最もアマテラスの側に近く侍る機織り女がアマテラスの絶対を、アマテラスが唯一であることを否定した。

 アマテラスは唯一のもの。数字の中で最も大きい数字は一。善も悪も、美も醜も、光も闇も、老いも若さも、全て含んだ状態が一。

 それら全てが分かたれる前の状態が一。

 だからアマテラスはスサノオを否定しなかった。高天原の神々にとっては理解しがたい行動ばかりを取る弟を否定しなかった。

「それも、ありだ」

 唯一絶対の女神は、そう認めていた。アマテラスは弟の行動を許していたわけではない。弟は、そういう行動を取る神だということを認めていただけだ。

 そこに、良いも悪いもない。そこに、ありか、なしかは関係ない。アマテラスはただ認めた。

 スサノオは、こういう行動を取るものだ。そういう行動を取らずにはいられないものだ。

 高天原の神々が、どれほど怒っても。高天原の神々が理解できなくても、そういう行動をしてしまうものがスサノオなのだ、と。

 多様性とは、その行動を許すことではない。その行動を認識するだけで充分。

 自分には、許容できない、理解できないことがある。そういうものが存在している。そう認識しているだけのこと。

  全てのものの高見に立つ神は見えている。秩序を乱すものだとスサノオを怒る神々に見えないものが。

 同じ状態の場所を見ても、庭師が見るのと植物学者が見るのでは反応が異なる。荒れ果てた庭と見るのか。植生が復活しつつある光景と見るのか。

 多様性という言葉が示す状態を植物学者が重視する。動物学者も重視する。植生が豊かであるということは、その土地が豊かである証拠。その植物を喰らう動物達がいる証拠。

 ところが秩序正しく整えられた美しい庭を維持したい庭師にとってはなんでもありというのは望ましい状態ではない。

 美しい庭を構成する為に必要なもの以外は排除する。これは庭師の論理。人の論理は、その人の立場や見方で変わる。

 ものの見方は、そのものの持っている知識や経験で変わる。この世界は答えが用意されていない問いに満ちている。

「学校の勉強なんて出来なくてもどうにかなるよ」

 そういう言葉はよく耳にする。かつて安易な慰めとして、そう口にした人を叱責したと宗匠は語った。

「学校の勉強には全て答えがある。答えがあるものくらい学べなくてどうする。学校の外の世界には答えなんてない」

 答えのない問いに対する答えを見つける為には、答えのあることを学んで手がかりを得るしかない。

 多様性というのは相手のことを知ること。相手のことを知っているというのが多様性。受容することではない。

 嫌いだけど知っている。これが多様性。受容出来なくても、許容することは出来る。

 色々な知識がどんどん入ってくれば許容する範囲が広がる。

 かつて地震は神に祈るしかなかった。揺らがぬ大地が揺れる理由を求めて、地面の下で暴れる鯰を作り、鯰を押し込める方法を祈願するしかなかった。

 知識が膨らんだから、地震がマントルが動いたことで起こったのだと理解できる。地震が起こる仕組みが分かったから、起こった時への備えも用意することが出来る。

 友達と喧嘩した時、理由が分かっていれば仲直りも出来る。

 多様性とは、すなわち教養の深さ。ある、なしでは語れない。

 

 スサノオがイザナギに逆らい、高天原の神々を怒らせても、貴神であったのはスサノオが多様性を表すものであったから。

 

スサノオは可能性、多様性

 スサノオは天津神でありながら、国津神の姫であるクシナダヒメを娶った。従ってスサノオは天津神であり、国津神。国津神こそが多様性。

 スサノオはあらゆる事柄を示す。産業、軍事、病理、自然科学。それらを全てスサノオに統括した。

 スサノオの拒否とは、ある一点の事象を拒否するということ。あらゆる事象の中の一点を拒否するということ。

 イザナギは拒否するという多様性を認めた。「それは嫌だ」と拒否する。それも人心の一つだと認めた。

 イザナギが国を立て直す為に生んだ三貴神。その末子の神、一番最後に生まれ、イザナギが一番大事だと考えていたもの。

 それは多様性。この国の土台となるもの。ピラミッドの土台となるものは多様性。裾が広ければ広いほど、頂点は高くなる。

 土台が強ければ、強いほどピラミッドは崩れない。

 イザナギは、頂点の存在として皆が見上げるもの、皆が己を見てくれている貴いものとして信じられる存在を、アマテラスを生んだ。

 アマテラスを高見に上げる豊かな存在としてのスサノオを生んだ。二千数百年前から、この国は多様性を認めていた。

 多様性は、「ある」「なし」という単純なものではない。色々な多面的なもの。色々な位相があることを許容するだけではない。

 教養は書物でなく人から得られる。だから学校で学べる機会がなかった人も深い教養を得られた。

 どんな存在であろうとも己以外は全て師。その視点を忘れない人は、世の中ものの全てを興味をもって眺めた。

 どんなものにも己が学べるものがある。その学べるものを見つけようとした。

 興味がない人は他者を認めない。多様さを認めない。自分の見たいものしか見ないので視野が狭くなる。

 凝り固まっている人ほど周りは見えていない。自分が大事にしたいものしか見えていない。

 イザナギが生み出し、アマテラスが認めたスサノオという多様性。

 その多様性を一柱の女神が拒否した。アマテラスの身近に仕える侍女である機織り女が拒否した。

 自分が許容できないものの存在を認めているアマテラスへの抗議の為に自死という手段を選択した。

 貴女が、そのような選択をするから私は死ぬのだ、とアマテラスを拒絶した。

 貴女が、私の望むような行動を取っていれば、私は死ななかったのだと、その行動でアマテラスに告げた。

 死という形で多様性を拒否した。

 そのことへの怒りと、そんな脅しをかけられてしまった自分への疑いは、アマテラスを岩戸に隠れさせるには充分な理由となった。

 自分が認めたものしか認めない。それ以外は、いてはならないと拒絶する。その拒絶が正しいと証明する為ならば、命さえも捨てる。

 この選択は、多様性に対する脅威。チャレンジに対する拒否。今まで皆が認めてきたこと以外のことを。すること。今までにないことをすること。

 チャレンジすることも多様性。自分の行動が誰かの死を招くというのなら、チャレンジすることを躊躇うものも出てくる。

 それを是とするのか。今まであるもの、皆が認めたもの、自分が許したものだけが存在していい世界。

 それ以外のものの存在があることを認めないためならば、死という手段を選択して世界を拒絶する心が正しいのか。

 それまで築きあげてきた家が、田畑が流されても。それまでかかった人がいなかった恐ろしい病が流行っても。揺らがぬ筈の大地が揺れて、動かざる筈の山が火を噴きだす様を呆然と眺めても。それも生きていればいいと思う心が正しいのか。

 人はどちらを選ぶのか?選びたいのか?に疑いを持ったアマテラスは自分以外の誰も入ってくることは出来ない固い岩屋の中に姿を隠した。

 光り輝く唯一神が、天の岩屋に姿を消せば、世界は指針を失い、闇と化す。悪神達は喜び、疫神達は騒ぐ。

「今は、こんな状態でもきっといいことがあるよ。お天道さまは見ていてくれる」

 そう人を励ます筈のお天道さまはいなくなった。絶望の中でも明日を信じる為の支えがいなくなった。

 あらゆる災いが全て起こったのに闇の中から見上げる光が、明るい方を目指して歩く為の太陽がいなくなった。

 神々は天の安の河原に集まり、どうしたら引き籠った女神を岩戸から出せるかを相談した。

 思金の神が神々に向かって案を出す。

 まず常世から渡ってきた長鳴鳥を集めさせて鳴かせた。

 次に天の安の河の河上から堅石を取ってきて、鍛冶師の天津麻羅を探しだし鉄を作らせ、伊斯許理度売命に天津麻羅が作り出した鉄と天の安の河上から取ってきた堅石で、

八尺鏡を作らせた。

玉祖命に八尺瓊勾玉を作らせ、天児屋命と布刀玉命を呼び、雄鹿の肩の骨と天の香山の波波迦の木で占いをさせた。

それから天の香山の眞賢木を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八尺鏡と布帛をかけ、布刀玉命が御幣として奉げ持った。

天児屋命が祝詞を唱え、天手力男神は岩戸の脇に隠れて立った。

天の香山の日影蔓を襷にかけ、天の眞拆の蔓を髪飾りにして、天の香山の小竹葉の束を束ねて手に持った天宇受賣命が天の岩戸の前に立つ。これで準備が整った。

 岩戸の前に伏せた桶を踏み鳴らし、天の宇受賣は高らかに舞う。その舞に神々は高天原全体に響くほどの大きさで神々は一斉に笑った。

 世界は闇に閉ざされている筈なのに、岩戸の外の楽し気な様子にアマテラスは岩戸の扉を少しだけ細く開け、訝しげに訊ねた。

「私が岩屋に籠っているから天の世界は自然と闇く、下界の葦原の中つ國も闇くなっていると思うのに、どうしてアメウズメは楽しそうに舞い遊び、神々は笑っているのですか?

 アマテラスの自分自身への疑いを知ってか知らずか、アメノウズメはその言葉が本当かアマテラスが確かめたくて仕方がなくなることを言う。

「貴女様よりあなた樣に勝って尊い神樣がおいでになりましたので、嬉しくて樂しく遊んでいるのです」

 その言葉を合図に天児屋命と布刀玉命がアマテラスの姿が映るように、少し開かれた岩戸の前に鏡を差し出す。

 途端、鏡はアマテラスの光を受けて輝く。その光が自分故のものだと気づかないアマテラスは鏡に映った自分の姿を新しく現れた貴い神だと思い、いったいどんな神だろうと、その姿をよく見る為にさらに岩戸の戸を開いた。

 岩戸の脇に隠れていた天手力男神は待っていたその瞬間が訪れたことを見逃さなかった。すかさずアマテラスの手を取って岩戸の外へと引き出し申し上げた。

 阿吽の呼吸で、布刀玉の命が注連縄を岩戸の入口に張り

「もうこれより内には再び入らないで下さい」

 とアマテラスに告げた。アマテラスに代わる貴い神はいないのだと神々が告げた。貴女がいないと世界は闇になると。二度と岩屋の中に籠ってくれるな、と。

 アマテラスの己ヘの疑いは晴れた。この国に住まうものは、多様性を認める矜持を必要としないのではないか、という疑いは晴れた。

 アマテラスに二度と岩屋に籠らぬように乞うたが、スサノオが高天原に留まることを神々は許さなかった。

 高天原を神逐されたスサノオが出雲でクシナダヒメと出会う前に、古事記ではスサノオの話として、日本書紀ではツクヨミの話として伝えられている話がある。

高天原を追放されたスサノオが大宜都比売神に食物を求めたところ、 大宜都比売神は鼻・口・尻から種々の食物を出したので、須佐之男神は穢いものを出して食べさせると怒り大宜都比売神を殺してしまった。

すると殺された女神の頭から蚕、眼から稲が、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生えた。

 そこで神産巣日神がこれを取って種子とした。

穀物が地上にもたらされた起源として知られた神話。

何故、スサノオがオオゲツヒメを殺したのか?という問いに宗匠は一つの見方を示す。

アマテラスとアマテラスに臨席するものだけに恵みを独占させるオオゲツヒメを不快に思ったのではないか、と。

古事記では、多様性を象徴するスサノオが、日本書紀では法を象徴するツクヨミがオオゲツヒメを殺す。

一粒の麦もし死なずば。多様性を守る為に殺して再生させる。一握りのものに富を独占させるものを殺して、閉じた世界の外にいるものも豊かにする。

多様性を認めないと国は広がっていかない。覇は移りゆく、変わっていく。国を超えた集合意識が、企業体がコロナで勝った。国々の苦難を横目にコロナで勝った。

今までの覇は国の力、広さ。次の覇は産業が取り、その次にSNSへと覇が移った。次に覇権を取るものは何だろう?クリック一つで選挙が出来る。

保守とは何か?多様性を考えた時に中庸はどこにあるのか?多様性が広がれば広がるほど、中庸は広がっていく。日本の根幹が薄れてゆく。多様性の賞味期限が切れかけている。

多様性が今問われている。以和爲貴、これをどう読みたいのか?と。

「和をもって貴しとなす(わをもってとうとしとなす)」そう朱子学の教えに沿って読みたいのか。

「和をもって貴しとなす(やわらぎをもってたっとうしとなす)」そう朱子学が伝わる前の読み方で読みたいのか。

和(わ)は円。固く閉じて中のものを守る。輪の外から中に入れない。輪の中から外にも出られない。

和(やわらぎ)は閉じていない。綺麗な円とはなっていない。たっといというフィールドが、どんどん広がっている。それがスサノオの神としての力。

相手と話すことで存在を確認する。自分には理解できないものがある、ということを理解する。

あるか、なしか、あたふたしている人には多様性がない。人の為に、という人が一番多様性に欠けている。

自分は、どうしたいのか?それを決める為には知ることしか出来ない。

神とは人が作ったもので人の行動。それを神に託している。仮託している。AIは、そのうち神になる。

技術は進歩する。集められたデータからAIは判断を下す。人にとって望ましい答えを、間違いのない答えを下す。

その時、人は「拒否」できるのか?それとも拒否という考えすら浮かばずに新しい神に仕えるのか?

スサノオ、三貴子の中で一番最後に生まれた神は、これからどのような姿を見せるのか?

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