ただ見てくれる存在があることの有難さ。そういう存在があることを実感したいという願望を皆どこかに持っているような気がします。
どこかに発表するというあてもなく、ただ作者が自分のアカウントからTwitterマンガとして発信した夜廻り猫。
「む、これは涙の匂い」
涙の匂いを嗅ぎ当てて
「もしやおまえさん、泣きたい思いを抱えていないかね。良かったら話してみなされ」
とやって来る野良猫はけっして人を助けたりはしません。猫がするのはただ聞くことのみ。その人が涙の匂いをさせたその訳を。
良かったら話してみなされ、という言葉通りに、その人が話したいと思っていることだけを聞く。聞いて、ただ頷く。それだけの話が、何故人を惹きつけ、何故人気となり、単行本が巻を重ねアニメ化までされるようになったのか。
何もしない。何も解決してくれない。ただ泣きたい夜に傍にいて話を聞いてくれるだけの猫の話が。
もう一つ、ただいるだけの存在がございます。川原泉の古い作品に「中国の壺」というお話があります。
主人公の家には、代々伝わる中国の壺に住まう人がいる。壺の持ち主と持ち主と同じバイオリズムを持つ人間だけにしか見えない、その人は代々その家の主人を見守っている。
亡き父が亡くなる前に主人公が
「これは我が家に代々伝わる中国の壺。今度はおまえが持つ番だ。この壺はきっとおまえを見守ってくれるよ」
と、譲り受けた時、父が見せた笑いは、父の葬儀の後分かった。壺の中から
「さあ今度がおまえがこの壺の持ち主か」
と現れた飛龍は、本当にただ見守るだけの人だった。飛龍が壺の主となったのは、彼の後悔ゆえだった。
唐の高級官僚であった飛龍は、東の果ての島国から遣唐使の一団としてやって来た留学生と出会う。
「見る物、聞くもの何もかも美しく、珍しく素晴らしゅうございます。貴国の優れた文化を手本にいつの日にか我が国もかくありたいと」
そうひたむきに長安で学び、大唐国の才人。さすが色々なことを良く知っていると自分を慕う留学生に、ある日気まぐれで誘いをかける。
「我が家の文物を見せてやろう。宮殿の門のところで待っているがいい」
ところが約束の日、待ち合わせの場所に行こうとして飛龍を同輩が酒席に誘う。誘いを断り切れず、また誘われているなか雨も降りだしたことから
「この雨なら彼も帰っただろう」
と飛龍は同輩と時を過ごす。ところが、その日以降留学生は姿を見せない。気になった飛龍が部下に訊ねると
「ご存じなかったのですか。先日の雨の日、あの留学生は、何故か雨にも関わらず門のところでずっと立っていたのです。雨に濡れたせいで病気になって、ずっと床についておりましたが、そのまま回復せず、息を引き取ったのです」
飛龍は、まだ少年のようにも見える留学生が妻子を故国に残して海を渡ってきたことを彼から聞いて知っていた。
「大唐国で学べることはとても素晴らしいことだけど、まだ幼い子供や妻はいったいどうしているだろう」
月を見ては故郷の家族を思い出していたことも知っていた。留学生が購入し、妻子が待つ故国に持ち帰る筈だった壺を前に
「自分が約束を破ったせいだ。穴があったら入りたい」
と己を恥じ、後悔の涙を流していた時に壺から神龍が表れ
「ならば、その望みを叶えてやろう」
と飛龍を壺に封じこめた。壺は黄砂に乗り、留学生が帰れなかった故国に飛ぶ。そうして飛龍は留学生の故国で、彼の末裔を見守り続けた。
と、いっても飛龍は何もしない。壺を譲り渡した時、主人公の父が娘に向かって
「壺は、きっとお前を見守ってくれるよ」
と笑った通り、飛龍はただ見守ってくれるだけの人。主人公が
「少しくらい手伝ってくれたってバチは当たらないだろう」
と、掃除でてんてこ舞いの主人公がぼやいても
「私が手出ししてもおまえの為にはならんからな。ここは、やはりいつものよーに優しく見守ってやるだけにしよう。なんたって私はおまえの守り神なのだからね」
と何もしない。飛龍は、ただ見ている。
主人公が母の再婚で移り住んだ館で、皆が気持ちよく暮らせるよう日々庭を掃除し、庭の手入れをする為に植物について学んでいることも。
義兄が、父からの重圧と仕事へのプレッシャーから夢遊病のように夜歩き回っていることに気づいて、己の状態を父に知られることを怖れる義兄に協力して、その状態がばれないよう散歩につきあっていることも。
家族の状態に何も気づいていない義父から「少しは家のことをしたらどうだね」とお小言をくらったことも、全て見ている。見ていて、主人公が落ち込む状態に怒り
「あの男は自分が何も見ていないことに気づかないといかん」
と義父が正しい状態に気づくように誘導する。
飛龍が気づくように誘導したことは主人公は気づかない。ただ本当の状態に気づいた義父が
「この間は、悪かったね」
と誤り、家族への態度が柔らかくなったことに嬉しく思う。
誤解からお小言をくらったことで落ち込んでいた時
「あの男は、何も見ておらん!」
と怒る飛龍に、落ち込んだ状態のまま主人公は言う。
「いいんだ、飛龍が見ていてくれるから」
良い時も悪い時も、ただ傍にいて見てくれる、自分の話を聞いてくれる。どちらの話もそういう存在を求める人がいるから、こういうファンタジーが成立するのでしょうね。
年も新たになりまして、寺社に初詣に行かれた方も多かったのではないかと思います。何ごとも始まりというのは、とても大切なものでして。
白い紙にポンと筆を下ろすのと、様々な絵や文字が書かれている紙にポンと筆を下ろすのとでは、その後の影響が異なります。
ほんの最初の一点は、その後の絵や文字に大きな影響を与える。ですから、年の始まりの時に寺社に詣り、静かな心持ちで祈るのは一年の始まりに相応しい行為でしょう。
お詣りする時、大抵の人はまずはポンポンと手を叩きます。手を叩くのは神様に向かって
「聞こし召せ、聞こし召せ」
と呼びかけているから。聞こし召せというのは、古語の尊敬語。「お酒を飲んでください」「ご飯を召し上がってください」という時に使われる。
神様に向かって「聞こし召せ」と柏手を打って呼びかけることは「自分を聞こし召す」ということ。
「私を聞こし召してください」
そう神に向かって呼びかけているということ。お社の前で柏手を打つ。神様に向かって「私を聞こし召してください」と呼びかける。
柏手を打つことがすなわち契約となる。では何と契約をするのだろう?何を契約するのだろう?
神は人心のバルブ。人々の心を調整する為の調整弁。神があるがゆえに、人は健やかに日常を送る。
鍛冶師は火の神に加護を祈る。火の神が護ってくれるから事故がない。漁師は海神の神に加護を祈る。海神の神が護ってくれるから、無事漁から帰って来れる。
百姓は田の神に加護を祈る。秋の恵みまで大きな災害が来ず、無事恵みを得られることを祈る。
神の方から、自分を祀れば加護を与えると告げたわけではない。人の方から祀ったことで加護が得られることを祈って祀る。
神は人に約束をしない。だが、人は寺社に詣でたことで安心する。これで護ってもらえると心が安らぐ。
心が安らぐから、安心して日々のたつきに打ち込める。結果として神に加護してもらったこととなる。だから人は神に祈る。寺社に詣で、神に祈り、安心して帰りに参道で遊ぶ。
お伊勢詣りの時代から、いや、それ以前から寺社詣りには遊興がつきもの。
なかなか願いを叶えてくれない神も今度こそ、願いを叶えてくれるかもしれない。
そうやって見ている夢が日々の生活の希望となる。頭の痛いことばかり続く日々の暮らしの潤いとなる。
神は人に約束をしない。神は人と契約をしない。たった一つを除いては。このたった一度の契約を履行します、という考えが人の側にある。
このたった一度の契約が今でも有効であることを確認する為に柏手を打つ。二拍二礼。神社にお詣りする時に、二回柏手を打つと決めたのは明治以降。
それまでは二回と決まっていたわけではなかった。全国の神社を自分の統制下におき、参拝の仕方も統一させたがった明治政府の世になるまでは参拝の仕方も神社ごとに異なる。
明治以前は、柏手は二拍打つのが当たり前ではなく、むしろ一拍の神社の方が多かった。神の前で一拍柏手を打ち、打ったら手を開く。手の内を神に見せる。一拍頂戴。神の前で手を合わせ、手のひらを見せる。
明治になってお詣りの仕方が統一されるまで、人は神社の前で一回柏手を打った。神が人と結んだただ一度の契約。この契約を結ぶ為に、この契約が今でも有効であることを確認する為に、人は神様の前で柏手を打った。
では、それはどんな契約なのか?
「私は、くにの民である」
これが神と人が交わした唯一度の契約。自分が、このくにの民であることを。神と契約を交わした君を君主と仰ぐくにの民であることを神に思い起こさせる為に人は柏手を打つ。
民である、ということは、そこに民を率いる君がいるいうこと。人は群れで生きる生き物であり、群れにはリーダーが存在する。
民を率いる君がいるからこそ、くにという人の群れが成り立つ。日本というくには、神が民を率いる君と一度だけ契約を交わした。
天孫降臨の時、天照大御神は地上へと降りる孫と契約を交わした。神と王者が唯一度の経契約を交わした。この契約の履行を遂行させる為に、人は柏手を打って神と契約する。
天照大御神は、瓊瓊杵尊に天壌無窮の神勅を与えた。「くに」という考え方を一番最初に示した神勅が、この天壌無窮の神勅。
「くに」とは一体何か?線か?今、国と国は国境で区切られている。この線が当てにならないことは、サイクス・ピコ協定によって引かれた国境が今に至るまで中東紛争の要因になっていることからも分かる。
では、本来の「くに」の仕切りは何か?そもそも「くに」とは一体何か?
「くに」とは人である。くにとは同じ言語を話しものが集うところ。同じ言語を話すことで、諍いを言葉で理解する、言葉で認識することで出来るところ。
諍いがあるということを言葉で分かるところ。食料を得る為、猪を追っていた人達の前で、別の一団がその猪を狩った。喜びの声をあげる一団に猪を追ってきた人達が叫ぶ。
「それは俺達が追ってきた獲物だ!」
これが言葉で諍いを認識できるということ。言葉で諍いを認識出来なければ、いきなり暴力で争うしかない。
お互い権利を主張したり、言葉を交わすことによって、共通の認識が生まれ、落としどころを見つけることが出来る。これこそがくに。
言葉を交わすことが出来るから、共通の認識が生まれ、無駄な争いを防ぐことが出来る。
これこそが「くに」
それを神様との約束という形で文字に起こしたのが天壌無窮の神勅。
太陽を求めて、東へ東へと旅を続けた人々。様々なルートから、それぞれの同じ言葉を持つ集団がこの東の地へとやって来た。
様々な集団がこの地に集まった時、集まった人々は契約を交わした。誰と?様々な集団が集まった地を見ているものと。
自分達が手に入れようと追い求め、そして決して手に入れられないと分かったものと。
神は守ってくれるのではない。神は人を守らない。神様は、ただ人を見守ってくれるだけ。
この見守ってくれる神様、同じ共通の神様を持っている人達が一つの集団を作る。集団を作り、同じ地域に集って暮らす。こういうものを「くに」と言う。
そして、「くに」は線によって区切られているのでなく、同じ情報を共有できる範囲まで。同じ情報を共有できる先端までが同じ「くに」に属する。
文字が無い。紙が無い。でも手を叩くだけ、柏手を打つだけで日本は契約を結べた。手を叩く、このやり方を見出した。
手をあわせましょう。そして離しましょう。手を叩く。高く響く破裂音。この破裂音が気持ちよく響く時が契約。
今、国は線で、国境で区切られている。当時、「くに」は情報を共有できる人達の集まりが「くに」だった。
そして「くに」を束ねる者は、太陽と話が出来る人。天から見守ってくれる存在と話が出来る者をくにの束ねとした。これが政が出来る人。政は祀りごと。祀りごとが出来るものが偉いのではない。
偉いのは天にあるもの。だが、祀りごとをする者は天にあるものを、ずっと観察するもの。「自分達が働いて貴方を養うから、貴方はずっと天の様子を観察してください」という役目を人から求められたもの。
太陽をずっと見ていなさい、そういう役目の者が一人決まった。その役目を負わされたものが、太陽の様子を読み取って、天が語る言葉として人々へ仲介し伝える。
その情報を同じ言葉で共有できる人達が集ったところ。これを「くに」といった。
従って、あの天に輝くもの、東から昇って西に死んでゆくもの。あれをどういう言葉で語るか、何語で語るかの集合が「くに」だった。
言葉で「くに」が違う。これは情報機器が発達した現代の人間には理解しづらい。ラジオやTVが「これが全国共通で通じる言葉」という見本を示すまで、おくに言葉しか話せないものなど、この国には大勢いた。
同じ神様を祀っていても、言葉が変われば「くに」が変わる。「くに」が変わっても、同じ太陽や月や海や山を拝んでいた。
この共通の認識があることが重要。言葉は違えど共通の認識があった人達が、その神様と唯一契約を結べるとしたら、文字でもなく、言葉でもなく、拝礼でもない。手を叩く。これ一つ。手を打つだけで契約を結ぶ。
人間ではなく、神相手だから、手を打つだけで契約が結べる。この契約方法を考えたのが国之常立。くにの在り方をどうしたら良いのかを考えたもの。
「くにが常に立つのはどういうことか?」ということを考えたら、くには契約で成り立っている。その「くに」と現代の私達も契約を結んでいる。
私達が今、様々な考え方、様々な境遇はあろうが、それでも「くに」に守られているのは「くに」と契約を結んでいるからだ。
たとえ無戸籍なものであろうとも、日本語を話すものである限り、日本国の人間として手が差し伸べられる。必要な支援を得られる。
「自分は無戸籍です。戸籍が無い為、国民として必要な支援が得られません」
そう日本語で訴えることが出来れば、本当にその主張が正しいかどうかを調べられはするが、必要な支援は得られる。
戸籍に載っているから、国が支援するのではない。日本語を話すから、日本の民だという契約が結べられている。
無戸籍の人間がミャンマー語で助けを求めても、この国は助けない。だが、日本語を話すものであれば手を差し伸べる。
日本語という言葉だけで、我が国の土地と契約を結んでくれる。この方法を日本は見出した。
日本人は神と契約を結んだ。どの「くに」の言葉を話すものであろうとも、神社の前で手を叩く。神に契約を思い出してもらう為に「聞こし召せ、聞こし召せ」と手を打つものは日本人。
それは言葉を発することが出来ない声を持たない者達も、神に契約を思い出してもらえる術として与えられた所作。
くにの在り方を考えた神が、考えついた契約の方法だった。
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