【第10回】 シンメトリーのTNGR

 権利に対する意識が厳しくなったせいか、この頃は以前より見かけることが少なくなった気もいたしますが、ひと昔前までは、海外の映画や小説からアイデアを得た作品をわりと見かけた気もいたします。

 これは映画やドラマだけでなくマンガについてもそうでして、大人になってから、あれはこの作品にインスパイアされたものだったのかと気づくことは珍しくはありません。

 有名なところでは、あまりの怖さに人気をはくし、何度も復刻されては現在まで読み続けられている「聖ロザリンド」

 これは作者のわたなべまさこさんが「悪い種子」というアメリカ映画を気に入ってインスパイアしたものだと言われておりますが、「元の作品よりも聖ロザリンドの方が怖い」と言われるのは、わたなべさんが描くロザリンドが天使のような愛らしさに満ちているからでしょう。

 無垢な愛らしい少女がサイコパスの殺人鬼というギャップ。自分が何をしているのかを分かっていないロザリンドの無邪気さが、より一層恐怖を高めます。

 美と恐怖の物語は、少女達を惹きつけるせいか少女マンガのホラーは傑作は多く、普段マンガを読まない男性でもホラー好きなら、その怖さを知っているという作品はごまんとあります。

 ただ柳の下に女性が立っているだけなのに怖い。とても美しい女性が立っている。それだけなのに怖い。

 そういう傑作が多いせいか翻案されても、あまり目立ちませんがオスカーワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」これも少女達を惹きつける物語の一つです。

 悪徳の限りを尽くしても、若く美しいままのドリアンとドリアンの代わりに醜く変貌していく彼の肖像。

 醜悪な己の肖像にドリアンがナイフを突き立てた時、彼に死が訪れる。悲鳴を聞いて駆けつけた人々が目にしたものは、輝くような若さと美しさに満ちたドリアンの肖像画と胸にナイフを突き立て横たわる醜く老いた男の死骸。

 少女マンガだと悪徳の限りを尽くした主人公の代わりに、変容していくのは彼女が持っている人形。

 人形が主人の身代わりとなって変わっていく。

 同じ「ドリアン・グレイの肖像」がモチーフでも、作者によって出来上がった物語は変わっていきます、

 ある物語では、醜く歪んだ人形に嫌悪感を感じた主人公が人形を火にくべると、それまでどんな悪徳の限りを尽くしても美しかった少女は燃やした人形そっくりの醜く歪んだ容貌に変わります。

 別の物語では、少女は悪徳は尽くしません。主人公は道で小さな女の子に聞かれます。

「私のおばあちゃんの人形を知らない?」

そう訊ねかえした青年に小さな少女は怒ったように答えます。

「僕は君のおばあちゃんを知らないけれど、いったいどんな人形なの?」

 癇癪を起して少女が行ってしまった後、青年は道の片隅で老婆の姿をした人形を見つけます。あの子が言っていた「おばあちゃんの人形」とは、これのことかと振り返って

「だから、私のおばあちゃんの人形よ。分からないならもういい!」

「ここにあったよ」

 と呼びかけた時、既に少女の姿はありませんでした。ここに置いておくと誰かに持っていかれるかもしれない。次に会ったら渡してあげよう。青年は人形を鞄に入れて次の予定へとむかいます。

 青年の次の予定は小学校の時の同窓会。子供から大人へ。たった数年なのに久しぶりにあった同級生は、一緒に机を囲んでいた頃とはまったく別人のようでした。

「何でそんなものを持っているんだ?」

 鞄に入っていた人形を見つけられた青年は、来る途中で人形を探していた少女と出会ったことを話すと、友人の一人が聞きます。

「その女の子って金髪の小さな子?」

「知っているの?」

「私の一番小さな時の記憶なの。おばあちゃんの人形を持っている女の子が座っていたの。何故だか、それが不思議で覚えていたの。金髪の女の子?私が見たのときっと同じ子だわ。あれから何年もたっているのに同じ姿をしているなんて。きっと幽霊だわ!」

 むきになって言う友人に別の友人が言います。

「酔っているの?同じ女の子の筈ないじゃない、落ち着きなさいよ。それよりこれジュモーじゃないおばあちゃんの人形なんて珍しいけど。凄いわ、アンティークよ」

 将来は人形屋をやるのが夢だという友人から、少女が探していた人形が貴重なアンティークドールだと聞いた友人は、家に帰ってからふと気まぐれを起こします。

 貴重なアンティークだといってもこんなに薄汚れていたら、そんな高価なものに見えないな。そういえばうちにベンジンがあった。綺麗にして、あの子を喜ばせてあげよう。

 ところがベンジンをつけた布で磨き始めると、人形の皺が消えました。皺は書かれたものでした。

 もしやと思って、閉じていた目も磨いてみると目は接着剤でくっつけられていたもの。

何故、そんなことをされていたのか分からず、青年が人形を磨き続けました。

いつの間にか雨が降り出したいました。雨音も気に留めず青年が人形を磨き続けると老婆の人形は、よくある可愛い女の子の人形に変わりました。

 何故、こんなことをしたのだろう?と不思議に思って人形を見つめていた青年はあることに気づきます。

 この人形は、あの女の子に似ている。

 驚いた後、青年は考えなおします。同じ金髪。同じ年頃の人形と少女。似ていたって当たり前じゃないか。

「返して」

 その時、窓の外から声がしました。

「あの時のおにいちゃんでしょう?それは、私のおばあちゃんの人形よ。返して」

 戸惑いながら青年は応えます。

「あの時の女の子?声が違う」

「人形を探していて、雨に濡れちゃったの。お兄ちゃんのせいよ。返して」

「雨に濡れた?風邪をひいたの?そのせいで、そんな声になった?入っておいで拭いてあげるよ」

「………濡れてみっともないから嫌。人形を窓辺において。人形を受け取ったら私帰る」

 躊躇ったように少し沈黙した後、少女は青年の申し出を拒否します。

「みっともなくなんてないよ。風邪をひいたなら心配だから入っておいで」

「いいから、そこにおいて!人形を受け取ったら、私帰る!それから人形を置いたら、おにいちゃんは明かりを消して窓辺から離れて!こんなみっともない姿を見られたくない!」

 強く言い募る少女に根負けして青年は明かりを消した後、人形を窓辺に置きます。開けられた窓の外から手が伸び、少女が人形を捕まえました。

 その時、雷が鳴りました。強い稲光は人形と少女を映し出しました。窓の外から人形を抱きとめた少女は、老婆の顔をしていました。

 驚いた青年が窓の側に駆け寄った時、既に少女は人形を持って駆けてゆく後ろ姿しか見えませんでした。

 数日後、老婆の人形を抱いて子供達と遊ぶ少女に青年は出会います。ためらいながら青年が声をかけようとすると少女は笑いながら言います。

「あの時は人形を見つけてくれてありがとう。私は年を取るのが嫌だったの。だから人形に代わってもらったの」

 そう言って、子供達と一緒にかけ去ってゆく少女を見て青年は思います。

 人形が歳をとる。あの子の代わりに歳をとる。あの子はそれで幸せなのだ。あの子はそれで満足なのだ。一番幸せな時代に時を止めたから。

 冷凍食品は、時を止める代償として味が落ちる。

 しかし、何故だろう。あの子が哀れになってくる。

 物語の中で、何故自分がそう思うのかを青年は語りません。凍結された時の中で、自ら望んで幼いまま過ごす少女を何故哀れと思うのか。

 美と恐怖。時と人。このテーマは人を惹きつけ続けるから、このテーマで語られる物語が繰り返し現れるのでしょうね。

 どの国でも神の名は、その神の性質を表します。それは古事記の神々においても変わりません。名前を見れば、その神がどんな神であるのかが分かる。

それだけでなく私達が、その神をどのように祀ってきたのか。それを伺い知る欠片が入っています。

その欠片を拾い集めていくことで、古事記が編まれた時代の人々がどのように神を祀ったか。当時の神の在り方と今の私達がどのように繋がっているかを学ぶことで、「神観念」について考えるということを、この長い講座の間繰り返し宗匠は私達に語ってくれました。

「神観念」とは何か?単純に分解してしまえば、「神」に対する「観念」。「

観念」とは人間があるものについて心中にもつ表象を指示する用語として使われる言葉です。

元々は仏教用語で、「心静かに智慧によって一切を観察すること。物事を深く考えること」を指す言葉でしたが、中世以降「あきらめて、状況を受け入れること。覚悟すること」の意味に転じて日常的に使われるようになり、更に明治期なってからギリシア語のideaの訳語として「人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。表象。心理学的には、具体的なものがなくても、それについて心に残る印象」を指す哲学用語として使われるようになりました。

 「観念」と同じように哲学用語として使われるようになった言葉として「概念」があります。

 「観念」が、それぞれの人がなにかに対して抱く「考え」対象の物事に対して心の動きや感情が加わったもの、個人に認識されたものを指す言葉なら「概念」とは、なにかの物事の概括的な意味のこと。

その物事をおおまかにまとめた、だいたいこうである、といったものを指す言葉です。

より簡単に言ってしまば、「観念」はそれぞれの人の考え、「概念」は世間一般に共通した意識のこと。

 ですので宗匠が繰り返し「神観念をあげる」ことについて語られたのは、世間によくあるスピリチュアルという名の現世利益を得ることを目的としてのことではなく、神観念をあげることで、今までの哲学者と合致しながら、どれだけ自分の哲学を深めることが出来るかということを目的としてのことでした。

 今期、古事記の神々について語られた講座「慎古事記の神NEO」が始まった時、宗匠は私達にこう指示しました。

「毎朝、必ず神様にお水をあげてください」

 今回の講座は、今期10回目。つまり10ヶ月の間、この講座に通ってきた人は毎朝、神様にお水をあげてきたことになります。

 今回、宗匠は講座に集った人々に訊ねました。

「最初の時と今では、神様にお水をあげる時に気持ちの違いはありますか?」

 訊ねられた人々は、それぞれ自分の場合はどうなのかについて答えました。誰ひとり始めた当初と同じことをしている人はいませんでした。

 「毎朝、お水をあげる」その行為は同じでも、お水をあげる人の心持ちは変わっておりました。

 毎日同じことを同じ相手に繰り返すと、そこにシンパシーというものが生まれてくるということは行動心理学によって明らかになっています。

 毎朝、同じ時間帯の、同じコンビニで、同じレジの人から、同じコーヒーを買う。コーヒーを買うだけだから、特に話もしない。

 けれど、たまたまその人がその時間帯にコーヒーを買いにこなかったり、たまたまその日レジの人が別の人に代わっていたりすると、なんとなく気になる。

 話をするほどではないけれど、「いつもの人いなかったな」と思い、次の日いつもの人がいつもの時間帯に、いつものコーヒーを買いに来て、いつも通りの人がレジを打ったりするとホッとしたりする。

 人間心理としては何の不思議でもない。そこに人がいるのであれば。宗匠が支持したのは

「ただ水をあげること」そこに相手がいるとか、考えなくてもいい。何も考えなくていい。ただ水をあげなさい、という指示だったのに、心持ちの違いを聞かれたい人々は一様に同じことを口にした。

 水をあげた先に、まるで誰か相手がいるかのように口にした。

「ただ水をあげろ。何も考えなくていい」

 そう宗匠は言い続けたのに、指示された人々はお水をあげる先に対話する相手を作りだしていた。

では対話する相手、それはいったい誰?宗匠はきっぱりと答えられました。

「それは神ではない。『毎朝お水をあげる』その為に積み上げられてきた時間。毎朝少しずつ集められてきた時間。

自分が行った行動の為に費やされた時間という概念が、お水をあげた先の相手という存在を作りあげてきた。そしてそれはとてもシンメトリー」

お水をあげた先にいる自分と同じ相手。『時』に左右対称はない。「時間」に左右対称という概念はない。もしも時間にシンメトリーがあったとしたら、自分と同じ時間を過ごしているもう一人の自分がいることになる。

 ただ、毎朝同じ行動をしているうちに、自分と同じことをしている、自分と同じ存在を私達は自分の隣に作りあげてきた。

自分が、自分で決めたことを破らず、欠かさず行動してきた。それを見つめてきたもう一人の自分がいる。 

「自分は、それをしてきた」ということを見ている自分を作りあげられるのは時間しかない。

自分は、どんな時間を過ごしてきたのか?それを見ている自分を、時間を積み重ねることによって私達は作りあげてきた。

眠いけど、やっている行動が。やっていることに慣れて、習慣として機械的にやっている動きがちゃんとあっているのか、俯瞰して見ている自分を時間を積み重ねることで私達は作りあげてきた。

時は一方通行。進む一方で、戻ったりはしない。時にシンメトリーはない。けれど行動を起こすことで、私達はシンメトリーを作りあげていく。

「やるべきことをちゃんとやっている自分」を見ている自分という、自分のシンメトリーとなる存在。自分と同じ顔を持ち、同じ行動を取る存在を作りあげていく。

経験が自分のシンメトリーを作りあげていく。自然にはシンメトリーはない。自然に左右対称なものはない。ただ一つを除いては。

水に映った己の姿。水面を挟んで対になるもの。左右対称は美しい。時間をかけて人は美しいものを作りあげていく。

己が求める美しいものを、行動で作りあげていく。神観念とは美しさの希求。己の所作が、己の行動が美しいものとなっているか?それを見ている自分がいる。

それを象徴し、伝え表すものが神事となっていく。

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