確か「旅ごころはリュートに乗って」だと思うのですが、星野博美さんが「弦楽器の歴史が音楽が貴族の楽しみから庶民も楽しめるものへと変わっていく過程と一致している」ということを書かれておりまして。
貴族のサロンで奏られるリュートから聖堂に鳴り響くパイプオルガンへと、弦楽器はどんどん音を響かせられる距離を伸ばしていき、目的も変わってゆく。
何故、そんなことを思い出したのかというと、今回麻布十番で開かれた宗匠の個展と銀座で開かれている田尻画伯の個展を拝見して、「これ写真や映像だと凄さが伝わらないなあ」と思ったのです。(いや、バシバシ写真を撮らせていただきましたけどね)
実際に生で目にしたり、耳にしたりしたものとレンズを通して観たものとの間に違いがある。まあ、これはライブにガンガン行ったり、どんなに混雑していようが、あの絵を見る為なら美術館に行くぜ!と思う人には「分かるわ~」と納得してもらえると思うのですが、この違いって比較しないと分からないですよね。
だから写真を観ながら「これ、本物はどうなのだろうな」と想像したり、「あれを生で観られるの⁉」と分かると万難に打ち勝って、そのチャンスをつかみ取ろうと燃える人が出てくるのでしょうけど。
芝居や音楽なら、たとえ3階席の後ろでも「同じ空間で生の音を聞いた。生の姿を観た」というだけで満足する人もいるけれど(ライブハウスやアリーナ最前列の方が嬉しいのは言うまでもないことですが)、書や絵画はそうはいかないですよねえ。
スラブ叙事詩みたいに、「人が多すぎて絵の側まで近づけないけど、ここからなら全体の構図が観れるぜ」という大作ならともかく(それでも絵の側に近寄って、まじまじと観たい人は多いと思うけど)、気持ちよく作品を眺められる距離ってあるのですよ。
今回二つの個展を拝見して、ああ貴族の遊びというのは距離が近いな。眺める度に違う観方が出来るから貴族の遊びなんだな、などどいうことを思いました。
一度観て、「凄いな、これは」と感嘆して。再び訪れた時に「ああ、これ前回観た時には気づかなかったな」と違う観方が出来る。そういう力を持つ作品だからこそ人を惹きつける。
少し意地悪な見方をすると芸術や芸術家を貴族や権力者が保護するのが当然であるという歴史は、この辺りにあるのじゃないですかねえ。
「俺は、この凄さを理解できる能力がある。また新たに凄いものを生み出せる人間を保護できるだけの力がある。ただ、金を持っているだけの人間じゃない。金を活かせるだけの能力を持っている人間だ」
ということを、自分が庇護している人間が生み出すもので無言のうちに誇示できるわけですから。
フランダースの犬でネロが「パトラッシュ、ルーベンスを観ることが出来るんだよ」と公開される日を楽しみにしていたように、無学な人間でも美しいものの凄さは分かりますからね。
個展のタイトルが「慎 古事記の神」なのは、田尻画伯がクラブワールドさんで毎月開催されている二條隆時宗匠の講座にインスパイアされたからですが、「神を描く」という難しいテーマに加え、もう一つ難しいテーマを田尻画伯は選んでいます。
「神勅」神との約束。
画廊の個展の有難いところは、ギャラリートークを作家本人からしていただけるということで、今回も田尻画伯ご自身が自作を語ってくださったのですが、「神勅」という難しいテーマを私達も理解しやすいように二條隆時宗匠も今回の作品と「神勅」というテーマについて語ってくださいました。
古事記・日本書紀には「三大神勅」と呼ばれる神との約束がございます。「天壌無窮の神勅」「宝鏡奉斎の神勅」「斎庭の稲穂の神勅」
「天壌無窮の神勅」とは、天照大御神が孫である瓊瓊杵尊の語った言葉。「葦原千五百秋瑞穂の国(=大和の国・日本)は私の子孫が治めるべき地です。行って治めなさい。天地共に永遠に栄えることとなるでしょう」
初代神武天皇は瓊瓊杵尊の子孫。貴方が、貴方の子孫である天皇家がこの国の長である限り、日本が永遠に栄えることを約束しよう、と神が語っているわけですね。
「宝鏡奉斎の神勅」の神勅とは「この鏡を見る時は、私を見るのと同じようにご覧なさい。床を共にし、同じ殿に奉安し、常に常にこの鏡を私の御魂として、私を祀るのと同様に奉安しなさい」
この鏡を神だと思って片時も離さず政を行いなさい。そう神が語っているわけですね。
「斎庭の稲穂の神勅」とは「天上の高天原で作られる天上の稲穂を貴方に授けましょう」
天の実りを貴方に分け与えるから、その実りを地へと広げなさい。そう伝えたわけですね。
この「斎庭の稲穂の神勅」が今回の個展で一番大きな作品です。神様の庭をどんどん広げていって天照の国を創っていく。
「国体とは国民だ」宗匠は、そう語られます。
天照大御神と瓊瓊杵尊の子孫の約束を、神と天皇家の(日本国の長との)約束を、実際に実行して稲穂を作っていくのは、水田を耕して、国土を広げて、国民を増やしていくのは国体である国民。
だから、「国体とは国民だ」そのように語られた言葉を田尻画伯は絵で表現したのです。これが今回最後に仕上がったメインの作品です。
この作品、この神勅について宗匠も語られました。
「斎庭の神勅とは、稲穂が大切なのではなく『斎庭』という言葉、『斎』という言葉がおそらく神勅の中で一番大切な言葉なのであります。特別で、決められた、そして大切な時間や空間。ここに稲穂を作りなさい。
稲穂というのは何だっていいんです。産業であり、皆が生きていく為に必要なもの。稲穂っていう言葉が示す抽象的なもの。本当の稲だけではなくて『生きていく』ということ。
では、どこに生きていくかというと『この特別な空間や時間の中』を貴方が守って、国民を守って生かせなさい、ということ。そういう神勅であることは間違いがない。
田尻画伯は、稲穂を描いたのではなく『斎』を書かれた。特別な空間を描かれた。」
神が人と約束した特別な空間の中で広がる金色の実り。田尻画伯は、今回それを絵で表現されました。
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