桜の季節でございます。
現代の風潮を評して「ファスト教養」という本が出るくらい、世の中は教養ブームでございますが、私この教養ブームが苦手でございます。
なにせ「自分には教養がない」と胸を張って言える人間ですから、教養、教養と言われますと「おまえは、こんなことも知らないのか!」とお説教を喰らわされるような気がして、つい腰が引けてしまいます。そういう人間が
「今年の鎮花祭、開催いたします。もしお時間がございましたら、ぜひ遊びにいらしてくださいませ」
というお誘いに
「せっかくの機会なので、友人も一緒に伺わせていただけませんか?」
とお願いしたのは、楽しい遊びは、その遊びを喜んでくれそうな人と一緒に遊ぶとより楽しいと思ったからです。
鎮花祭は雅な遊び。遊びは学びに通じます。学び好きな森田さんなら、きっとこの遊びを楽しまれる筈と春の宴にお誘いしたのでした。
あいにくのお天気でしたし、そもそも所詮、和の素養のない私達。ここは無理をしないでいこうと私達は洋装でしたが、集った方々は春の宴に相応しい着物姿。窓の外の桜にも負けない華やかさを漂わせておられました。
窓の外側も春。窓の内側も春。
宗匠は、ご自宅にある桜月宮の神主として祭祀を司る方でもありますから、春の宴は宗匠が桜の神に祝詞を奏上することから始まりました。
今回の歌会のお題は「いし」。日本語は、一つの音に複数の意味がある言葉ですから「いし」という二文字を、どのような意味と取るのか、どのような歌に詠みあげるのかは詠み人しだい。石か医師か意志か、「いし」という言葉はどのようにでも解釈できます。
集った方々が持ち寄られた歌は、宗匠とお家元達が、どの順列で詠みあげるかを協議します。まず栄誉なのは、一番最初に詠みあげられる一番名乗り。
そして毎年暮れに行われる歌合戦では最後の大トリが誰かが話題になります。歌を競う人々が集った時、最後の歌を唄うのは、そこに集った人々の中で最も栄誉を捧げられるのに相応しい人。
誰もが、「この人が最も素晴らしい歌をうたう」「最も栄誉を捧げられるべき人」と認められる人が一番最後にうたうのは年末の紅白でも、雅な歌会でも変わりはありません。
歌会の場合、最も最後に名を呼ばれる人、最も素晴らしい歌を詠んだ人は「天」と呼ばれます。
今回の「天」は、あまりに素晴らしい歌だったので、宗匠は詠みあげられるだけでなく、琴を奏でながら歌われました。
今年のアカデミー賞で「RRR」の「ナートゥ」がアカデミー賞歌曲賞を受賞した時
「インド人は、何かあるごとに踊る。心に従って踊る」
ということが話題となりました。
けれど、日本人も踊るのです。心に従って踊るのです。日本人がよく歌い、よく踊る人々であったことは、幾つもの記録に残されています。
いつから日本人は歌うことを忘れたのでしょう。何故、日本人は踊ることを忘れたのでしょう。悲しいこと、嬉しいことがあった時には、心のままに歌い、踊ることをあれほど愛した人々だというのに。
歌会の後は、香席。今回は壇席。春なので吉野香でありました。人々の間を「金剛、上、中、下」の中から三つのお香が回ります。その後にもう一度お香が回され、今自分が聞いたお香が4つのうちどれかを当てるのです。
当てた人は、盤上の吉野の地に桜の枝をさすことが出来ます。川下から、川上へ。回されたのが、どの香であったのか当てられた人が増えれば増えるほど、吉野の地は桜で埋まっていき、やがて吉野山の山頂まで花で満たされます。
この吉野香は、長い間開かれることがありませんでした。戦災で花を咲かせる筈の吉野の地の壇が失われたからでした。一度失われた壇を宗匠が新たに作られ、再び吉野の山に桜が咲くようになったのでした。
吉野の山が花盛りとなった後は、春の訪れを寿いで宴席が始まりました。
琴が春を奏で、膳も椀も春を奏でます。この日の為に特別に用意された菓子は桜色。茶碗も今日が桜の宴であることを伝えます。
宗匠は、宴の終わりに一つの歌を詠まれました。
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
在原業平が詠んだ有名な桜の歌。
「世の中には桜なんてものがなかったとしたら、春の心はどんなにか穏やかであったであろうに」
一般には嘆くことによって、春の桜の素晴らしさを称える歌として覚えられている歌です。
在原業平は、妻の従姉弟でもある惟喬親王と深い交誼を結んでおりました。惟喬親王は文徳天皇の第一皇子であり、誰へだてなく接する公平な性格の方でした。
どこに出しても恥ずかしくない立派な青年に成長した息子に帝位を譲りたい。文徳天皇は内心そう思っておりました。
けれど、その心のまま惟喬親王に帝位を譲ることに帝は躊躇いがありました。
惟喬親王の母、静子は紀一族の娘。藤原一族の姫ではありません。そして文徳天皇の妃には、藤原北家全盛時代の礎を築いたとうたわれる藤原良房の娘、藤原明子がおりました。
明子が生んだ皇子が第四皇子であることも、まだ幼い病弱な少年であることも、藤原良房の娘が生んだ皇子であることの前には取るに足らないことでした。
帝位争いで弟に敗れた後、惟喬親王は美しい桜を見る為、業平と馬を走らせました。
「業平、歌を詠んでみろ」
美しい桜を眺めながら、惟喬親王は業平に命じました。親王の言葉を受けて業平は詠みあげました。
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
世の中に帝位なんていう、素晴らしいものがなければ人々はどんなに心穏やかにくらせただろうに。
「桜は心浮きたつものではありません。悲しい、鎮めを必要とするものです」
宗匠は、そうおっしゃられました。
「桜の木の下には死体が埋まっている。これは信じていいことなんだよ」
桜の樹の美しさの魔力を梶井基次郎は、そう記しました。
「桜の森の満開の下」で何が行われたのかを記したのは、坂口安吾。
今回、開かれた春の宴の名前は鎮花祭。桜は己の樹の下で何が行われたのかなど気にすることなく美しく咲く。
春は鎮めを必要とする季節です。
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